「治外法権」の意味とは?領事裁判権との違いもわかりやすく解説

「治外法権」という言葉を耳にしたことはありますか?聞いたことはあって、なんとなく意味はわかるけれど、説明するのは難しい…という人も多いのではないでしょうか。この記事では、「治外法権」の意味をはじめ、比喩としての使われ方の例文や、治外法権にまつわる歴史も簡単に解説します。ぜひ参考にしてみてください。

「治外法権」の意味とは

「治外法権」とは「外国人が滞在する国の法律に従わなくていい権利」

「治外法権(ちがいほうけん)」とは、特定の外国人が持つ、滞在している国の法律に従わなくてもいいという国際上の権利のことです。

通常は外国人であっても、滞在する国の法律に服します。しかし、外国の元首や外交官、外交使節などの特定の外国人は、国籍を置いている本国の法律や制度が適用され、在留先である外国の法律や制度は適用されません。これを「治外法権」といいます。

「治外法権」は比喩として使われることも

「治外法権」という言葉は、本来の意味の他に比喩として使われる場合があります。比喩として使われる場合には、「独特のルールを持ち、本来のルールが及ばない領域」というような意味で使われます。その場所での独自のルールは適用されるため、「無法地帯」という意味ではありません。

「治外法権」を使った例文

本来の意味での「治外法権」を使った例文

残念だが、外交官には治外法権が適用されるため、あの外交官を我が国で裁判にかけることはできない。

比喩として「治外法権」を使った例文

あの会社では、何か問題が起きた場合の対応はすべて社長に委ねられていて、一種の治外法権となっている。

比喩として使われる「治外法権」の類語とは

「聖域」

比喩として「治外法権」を使う場合、似たような意味を持つ言葉に「聖域(せいいき)」があります。「聖域」には「聖人の地位または境地」「神社や寺院の境内、神が宿るとされる所などの神聖な地域」という意味の他、「 触れてはならないとされる問題や領域」という意味があります。

「タブー」

「タブー」もまた、比喩として「治外法権」を使う場合の類語です。「タブー」は、聖と俗、清浄と不浄のように、異常と正常を区別して両者の接近や接触を禁止し、それを犯すと超自然的な制裁が加えられるとする観念や風習を指します。禁止された事物や言動という意味です。また、ある集団において、言ったり、したりしてはならないこと、という意味もあります。

ポリネシア語で「はっきり印をつけられた」を意味する「tapu(タプ)」が語源とされています。

「治外法権」と「領事裁判権」との違い

「領事裁判権」も特定の外国人に与えられた権利

「治外法権」と混同されやすい言葉に「領事裁判権」があります。領事裁判権とは、外国人が滞在している国の裁判権に服すのではなく、本国の法に基づき裁判を受ける権利のことです。

領事裁判権は、江戸時代末期、日本とアメリカの間で結ばれた日米修好通商条約の中に含まれていました。しかし、現代の国際社会では領事裁判権はどこの国にも存在しません。

「治外法権」と「領事裁判権」の違い

上記の日米修好通商条約により、当時日本に滞在していたすべてのアメリカ人は領事裁判権に守られ、日本で罪を犯しても、日本の法律や制度で裁判にはかけられませんでした。アメリカ人が罪を犯した場合、アメリカ人の領事がその罪を裁く権利を持っていたからです。

領事裁判権は、治外法権という権利の中に含まれているもの、つまり、治外法権の一種といえます。

日米修好通商条約が結ばれていた当時は、アメリカ以外にも様々な西欧諸国と領事裁判権を含んだ条約が結ばれていたため、日本各地で外国人の犯罪が爆発的に増加。さらに、日米修好通商条約には輸入品の税率を決める「関税自主権」が日本にはないなど、アメリカだけに都合がいい不平等な内容の条約だったため、不平等条約とも呼ばれていました。

「治外法権」はいつ、どうして認められた?

「治外法権」が認められた理由

日米修好通商条約締結時、日本初の総領事ハリスと江戸幕府との間でのべ15回もの交渉が行われました。

最終的に、「西欧諸国からの侵略を防ぐために、早急にアメリカとの条約を締結すべき」とハリスに強硬に迫られた江戸幕府は、領事裁判権の容認や関税自主権の放棄といった内容が含まれた不平等な条約に調印してしまいました。

日米修好通商条約が交わされたのは1858年。署名に記されている名前は14代将軍徳川家茂です。

「領事裁判権」への反発を生んだ「ノルマントン号事件」

明治時代に入ってもなお欧米列国の治外法権を認めた不平等条約が続いていたため、明治政府は条約改正の交渉に尽力しました。話がなかなか進展しないなか起きたのが「ノルマントン号事件」です。

「ノルマントン号事件」とは、1886年に日本の和歌山県紀伊半島沖で、イギリスの貨物船ノルマントン号が沈没した際、イギリス人の船長や船員が日本人乗客を救助しなかったとされる事件のことです。無事に避難できたのは、イギリス人船長をはじめ欧米人の船員のみ。日本人乗客25人が一緒に乗船していましたが、全員死亡してしまいました。

この事件の裁判は神戸にあったイギリス領事館で行われましたが、イギリス人船長と欧米人の船員が全員無罪となったため、日本全国で領事裁判権に対する反発の声が高まりました。

「治外法権」撤廃を実現した外務大臣は陸奥宗光

「治外法権」の撤廃を実現したのは、明治政府で外務大臣を努めていた陸奥宗光(むつむねみつ)です。

陸奥宗光は、当時、ロシアの東アジア進出を警戒していたイギリスに協力する条件として、不平等条約の改正を持ちかけました。ロシアの勢い削ぎたいイギリスとの利害は一致し、1894年に領事裁判権の撤廃や関税自主権の一部回復といった内容を含む「日英通商航海条約」の調印に成功。以降、日本はアメリカやロシア、ドイツ、フランスとも同じ内容の条約を結びました。

さらに日清戦争や日露戦争で勝利を収めたことにより、日本の国際的地位は向上。1911年には各国と関税自主権をすべて回復させることを含めた条約改正を行い、治外法権は完全に撤廃されました。

まとめ

「治外法権」とは、特定の外国人が持つ、滞在している国の法律に従わなくてもいいという国際上の権利です。外国人が滞在している国の裁判権に服さず、本国の法に基づき裁判を受ける権利「領事裁判権」は治外法権の一種になります。「治外法権」は「独特のルールを持ち、本来のルールが及ばない領域」という意味の比喩として使われる場合もあります。