「誰かの生活を彩るテキスタイル作家」松田唯インタビュー

爽やかな水色、優しげなピンク、海のように深い青。そんな誰かをワクワクさせる色彩のテキスタイルや服を作るブランド、YUI MATSUDA。今回お話を聞くのは「誰かの日常を舞台に、身に纏うものをつくる」をコンセプトに、洋服やアクセサリーを手がける松田唯さん。

手染めやプリントをメインにさまざまな技法で生地からつくりあげ、テキスタイル、洋服、空間装飾なども制作しています。素晴らしい感性を持った布の作り手たちが集い行われる博覧会「布博」への出展や、H.P.FRANCE(アッシュ・ペー・フランス)での展示販売なども行う彼女は、どういう進路を経て、作品を生み出すようになったのでしょうか。

美術大学院を卒業してから、就職せずに独立という道を選んだ彼女が作家になるまで、どういう選択をしてきたのか聞いてみました。

美大という進路を選んだ理由

「誰かの生活を彩るテキスタイル作家」松田唯インタビュー

—もともと服を作ったり、クリエイティブな仕事をしたいと思っていたんですか?

仕事って人生の大半の時間を過ごす大事なことですよね。だから自分の「したくないこと・したいこと」は何かということを考えていました。

進路を決めたのは、高校一年生の頃です。担任の先生に呼び出されて「どこの大学に行くか?」ときかれて、漠然と「普通のOLはできないだろうな」と思ったんです。もともと絵を描いたり作ったりすることが好きだったこともあり、なるなら、デザイン関係の仕事かなと思って「美大に行きたいです」と答えました。美術部に入ったのはそれからです。

今になって思うと、その時の美術の先生の技術力が高いことも運がよかったですね。デッサンの基礎をちゃんと教えてくれる先生でした。また、私が通っていた高校では「武蔵野美術学院」という東京の国分寺にある予備校とのつながりがあったんです。そこの通信教育を受けながら、夏休みや冬休みには国分寺に行って絵を習いました。その通信教育制度のおかげで基礎的なことを学べ、入試直前まで絵を描いて大学の入試に挑めました。

—美大の学部を選考する時も、好きなことを選んだのですか?

美大で学ぶことはなんとなく想像していましたが、詳しいことはよく分かっていなかったので、今自分の置かれた環境で受験対策ができる学部を選びました。私の場合、高校の先生が油絵の先生だったので平面デザイン系の学部を選択しました。もし、彫刻をはじめとした立体を学ぶ機会があれば、プロダクトデザインなどにいっていた可能性もあります。

—美大はいくつ受けたんですか?

全部東京の私大で、多摩美術大学をはじめトータルで5つ受けました。たまたま受かったのが多摩美術大学の「生産デザイン学科テキスタイルデザイン専攻」でした。

多摩美術大学に入ってよかったのは、一緒に学ぶ人たちそのものが刺激的だったところです。つくるデザインはもちろんファッションのセンスも面白い人ばかりで、その環境で切磋琢磨できたことは貴重な体験だったと思います。

—テキスタイル学科では、どんなことを学んでいったんですか?

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テキスタイルデザイン専攻では、布を染めたり、織ったり、プリントしたりして生地そのものからデザインし、服などのプロダクトを形作るまで学びます。卒業後の進路はさまざまで、繊維メーカーやアパレルだけに限らず、自動車のシートやカーテンを作るメーカーなどへ進む人もいます。

1年目は、染めや織りなど布に関する基礎的かつ伝統的な技術全般を習得、学年があがるごとに取捨選択をして狭く深く学ぶようになっていきます。3年になってからは制作した生地を使って何か”もの”を作るという側面が強くなっていき、私は独学では習得できなさそうな織りと、服をつくる授業を選択しました。4年生になると研究対象を1つだけに絞って卒業制作をしていきます。

—松田さんは、芸大の院も出ていますが、研究を続けるつもりで進路を選んだんですか?

いえ、就職したかったです。一枚の布を服にするという面白さを知るきっかけになった、あるアパレルメーカーでテキスタイルデザイナーになるのを目標にしていたのですが、入社試験に落ちてしまいました。

アパレルメーカーといえばどこかで作られた流行に合わせて、一般生活の中でできるだけ周囲に馴染むもの、浮かないものを作るというイメージがあったのですが、就職を希望していたその会社はそういったことよりも、布の持つ魅力を最大限に引き出して製品を作り出しているところが私にはとても魅力的でした。

布って、畳んだり広げられたり単体でもおもしろいものだと思うのですが、布を服にして人に着せるとさまざまな動きが見えるところが、さらにいいところだと思います。また、その人間のアイデンティティが見えたり、キャラを作れたりもします。だからこそ、服を作るならテキスタイルに特徴があるもので、着る人の個性を引き出せるものを作りたいなと思っていました。

大学3・4年の就職活動時期、他の会社は受けておらず、とりあえず目の前にある課題や卒業制作をつくることに精一杯で、卒業後はフリーターになりそうでした。そこで、親に「院に行ってくれ」と言われたんです。それから、東京藝術大学の大学院である「美術研究科先端芸術表現専攻」に進むことを決めました。

—東京藝術大学の大学院である美術研究科先端芸術表現専攻では、何を学んだんですか?

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学部ではテキスタイルのデザインや技術的な面を学びましたが、それを製品にして販売する以外に「どうやって社会で活かせばいいのか」をぼんやりと考えていました。

受験の時はデザイン科に行こうかとも悩んでいたんですが、舞台美術やワークショップを得意とする教授の元で、今までやったことのないことを経験してみたいと思い、先端芸術表現専攻を選びました。単に作品を作るだけでなく、滞在制作の機会をいただいたり、教授の仕事現場で実際に舞台美術制作や美術館での設営を手伝ったりなど、さまざまな経験をさせてもらいました。その中でもワークショップで”場を作る”という体験ができたことが、一番大きいかもしれません。

ワークショップは、ただの教室ではなく、主催者も学べるみんなの気づきの場になります。意見を言い合うだけでもワークショップだし、参加者のさまざまな考えを知ることができます。最後の完成図はなく、どうなるのかはわからないけど気づきを持ち、みんなで考えて進んでいくのがワークショップ。完成形だけが全てじゃなく、過程が大事、その場を作るのも大切なことだということを知れました。

テキスタイルを仕事にした理由は?

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—院を修了した後は、就職活動をしたんですか?

院卒の時は就職先の希望もなくて…就活をしませんでした。それに、東京は生活費がかかりすぎるので、生活をするためにバイトをして作品制作をする時間を持てなくなるのがもったいないなと思い、地方に行くことにしました。

そんな時、縁があって熊本の高校で美術の非常勤講師をすることになりました。高校で教えるかたわら、陶芸の作家の人たちと出会いがありました。陶芸は数千円から買うことができ、生活の中に気軽に取り入れられる道具のような側面がありますが、れっきとした美術品でもあります。

土を掘って練り粘土状にしたものからろくろなどを使って成形し、絵付けや釉薬(ゆうやく)を施して窯で焼くという一連の作業を全て一人でこなす作家も多くいました。ものづくりを生業にするとなったら工場や多くの方達とやり取りをしないと不可能だと思っていたのですが、1から10まで自分の手で制作ができるということは気軽に始められそうに思え、自分も人の生活の中に活きる作品を1から作ることを生業にしたいと考えるようになりました。

陶芸など、さまざまな素材で制作していた時期もあったのですが、やはり一番経験があった布へと回帰して、染めやシルクスクリーンプリントなどいろいろと試行錯誤をし始めました。

—そこから作家人生がはじまるんですね。

「誰かの生活を彩るテキスタイル作家」松田唯インタビュー

でも、その時は「自分が面白いと思うこと」や「本当にやりたいこと」、「具体的に何を作ればいいのか」がイマイチわからず悩んでいました。ただ、いろいろと挑戦していくのは楽しくて、だんだんとアトリエがほしいなと思ってきたんです。

それで、0地点に戻るのもいいなと、嫌いで離れた出身地でもある、地元の高知に戻ることに決めたんです。最初は実家で布をデザインして、プリントしていくことから制作をしていました。

—そこから拠点を高知にして活動し始めたんですか?

拠点は高知にしながらも、他の地方に出向くこともありました。高知に帰って半年くらいで大学院の恩師から、「福岡県の太宰府天満宮で、ワールドカップのブラジル大会に持っていく旗を作る」という企画があるので「それを作るワークショップの指揮者をしないか?」と声がかかって、数ヶ月行くことになりました。

そこで、ワークショップに活かせる染め方を探そうと、ろうけつ染めなどいろいろ研究しました。今の染めにも、その時の経験が活きています。

—院の恩師のおかげで表現の幅が広がったんですね。服の販売を行うようになったのは、そのあとですか?

はい。「自分から動かないと作品を見てもらうきっかけもなければ生業にすることもできない」と思ったので、山口のクラフトフェアに知人と出すことにしました。

そんな中で転機が偶然やってきました。クラフトフェア用の作品が出来上がった頃は、先に言ったワークショップで福岡に滞在中で、熊本にいた頃に知り合った美容師さんのところにたまたま髪を切りに行ったんです。その美容院はギャラリーを併設していて、「作品を展示しないか?」というお話を頂いたんです。ちょうど作っていた服を、そのギャラリーに置いてもらえることになりました。

そして、それがたまたま全国展開しているH.P.FRANCE(アッシュ・ペー・フランス株式会社)の福岡店の店長の目にとまって、お店に置いてもらえるというお話へとつながりました。現在も年に数回、夏などに展示販売してもらっています。

—すごい偶然の出会いから、商品を全国展開しているお店に置いてもらえるようになったんですね!

結局、そこから全てがはじまって、そこで見た人が声をかけてくれるようになりました。露出が増えると電話やメール、Instagramに、お店やスタイリストさんから問い合わせをもらえるようになったんです。

今は自分で情報を発信できる時代。作品を作ってインターネットで公開することで、会ったことのない方にも見てもらうこともできる。その中で声をかけてくれたその人がきっかけでつながっていくこともできる時代だと思います。

足を運んで営業活動することも大事だと思いますが、私は作品をコツコツ作るということが得意なので、得意なことを伸ばす、苦手なことは自分のやりやすい方法に変えるというスタイルで今のところはやっています。

「私が手で染めている理由」を作品に見出していきたい

「誰かの生活を彩るテキスタイル作家」松田唯インタビュー

—好きなものを作って認められたり、必要とされるのって作家にとって理想なんじゃないですか。うらやましいです。

私は作品に自分の気分が出たりもするので、「私が作る意味があるのだろうか」「本当に作りたいものなのだろうか」など悩みながら進んでいます。今、コロナ禍で県外や海外に販売をしにいけなくなって、最近は県内で滞在制作をしていました。それはとても自分の糧になりましたね。

–制作方法にも変化などありましたか??

今まで化学染料を使うことが多かったのですが、今は植物染料に初めて挑戦しています。滞在先で知り合った人や土地の背景を知り、残したいなと感じたものを布に染め写していく作業をしています。「私が手で染めている理由」を考えながら作業できています。

理想はオーダーメイドで、わざわざ形にする必要があるものに向き合っていきたいです。一人ひとりのストーリーに合わせた、わざわざ自分がやる意味があるものを作っていきたいです。

—最後に作家として、フリーでやっていくために大事なことを教えてください。

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生業にするというのは、人からお金をいただくということです。期限を守ることはもちろん、アピールポイントがないと大切な時間や労力をかけて得たお金を払いたいと思ってもらえません。

一人でやるのは、小回りがきくよさもあるけど、自分が動かないと成り立ちません。何よりも身体が資本ですし、好きなものを作るだけじゃなく、運営やPR、事務的な部分も担わなければならず、楽しいことばかりではありません。

だから一番大切にしたいことを大事にして活動できているのか、分からなくなったら一度立ち止まって考えることは忘れないようにしたいと思っています。また、物理的なことでいうと私の場合、作品を作れる環境を維持することが重要だと思っているので、そこは大事にしていきたいです。

松田唯さんのインタビューを終えて

美大を卒業した人は、進路に悩む人も多いと聞いていましたが、松田さんも就職をしようとしたり、非常勤講師をしたり、悩みながら制作を続けてきたんですね。

「泥臭くても、階段は一段ずつ登るしかないと思います。今自分にできるものを精一杯の力で出す。そうするとそんな自分に見合った仕事がくる。一見楽しそうで華やかな職業に見られたりもしますが、孤独で地道な仕事です。でも、どこかで見てくださる方がいてお仕事をいただけることは本当にありがたいことですし、期待以上のものを作りたいです。」

そして仕事のスタンスは、どこかに属していても、フリーランスでも基本的には変わらないんだなと感じました。これからも、今できる最高のモノを作り続ける松田さんのテキスタイルや洋服を見るのが楽しみです。

松田唯さんプロフィール

テキスタイルデザイナー、アーティスト。
多摩美術大学生産デザイン学科テキスタイルデザイン専攻卒、東京藝術大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了
誰かの日常を舞台に、身に纏うものをつくるテキスタイルブランドYUIMATSUDAを手掛ける。
染めやプリントなど、さまざまな技法を使って生地から制作することをベースに、衣服から空間装飾まで幅広く手がけ、感覚的なこと、言葉にならないものを形にする。
HP:http://yuimatsuda.com/

この記事を書いた人
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さかもとみき
1986年高知生まれ。広告代理店や旅館勤務を経て、ライター・恋愛コラムニストをしています。