「諦念」は「諦める」とは違う意味だと知っていますか?この記事では、仏教の教えが根底にある「諦念」の意味を仏教の考え方とともに解説し、「諦念する」「諦念に至る」などの使い方と例文も紹介します。類語・対義語も紹介しています。
「諦念」とは?
「諦念」の意味は”迷いを去った境地のこと”
「諦念」の意味は、“真理を悟り、迷いを去った境地に達すること”です。その他にも、「あきらめの境地に達すること」という意味があります。
ただし、「あきらめの境地に達すること」の意味が”見込みがないと断念する”という意味の「あきらめる(諦める)」ではないことがこの言葉のポイントです。その意味を理解するためには、「諦」の語が持つ仏教の考え方を理解する必要があります。
「諦念」の読み方は”ていねん”
「諦念」の読み方は一般的には“ていねん”と読みます。仏教用語としては、「たいねん」と読みます。
仏教における「諦」は”真理・真実”を意味する
「諦念」とは、もともと仏教の概念を表す言葉です。仏教における「諦(たい)」は、「真理」や「真実」を意味します。「心に去来する思い」という意味の「念」が付く「諦念」は、「真理や悟りの境地に心が達すること」をという意味を表しています。
参考までに仏教の実践の原理である「四諦(したい)」を紹介します。
四諦:
- 苦諦(くたい):この世は一切が苦であるという真理・真実
- 集諦(じったい):苦には煩悩や妄執などの原因があるという真理・真実
- 滅諦(めったい): 執着を断ち苦を滅することが悟りであるという真理・真実
- 道諦(どうたい):悟りに導く実践の道という真理・真実
仏教には、この世の一切は苦である、という前提の考え方があります。そして「苦」には煩悩に執着するという「原因」があり、仏教の実践によって執着を断つことで、悟りの境地に達するのだという教えが「四諦」です。
「四諦」を実践して到達する境地が「諦念」であるといえます。先に「あきらめの境地に達する」ことは「見込みがないと断念する」ことの意味ではないことを説明しましたが、仏教的に解釈すると、「あきらめの境地」とは「悟りの境地」という意味を表しています。
「諦念」は、一般的に使われるときにも、仏教の意味を含みながら使われていることがポイントです。
「諦念」の使い方や例文とは?
「諦念する」「諦念に至る」などと使う
「諦念」は、「迷いを去った境地」「あきらめの境地」に達した心の状態を表す言葉であるため、「諦念に至る」「諦念を覚える」などと動詞を補って表現したり、その状態にあることを表す「する(した)」の言葉とともに「諦念をする(した)」と表現したりします。
「諦念する」は助詞が不足した表現で文法的には誤りですが、「観念する」などと同様に、一般的に通用する表現です。
「諦念」」を使った例文
「諦念」を使った例文をいくつかご紹介しましょう。
- 諦念に至った人にしか表現できない奥深さを、職人の仕事に感じた
- 物事に執着する気持ちを捨てて諦念の心で残りの人生を歩みたい
- 会社生活は修行のようでもあり、業務の傍らふと諦念を覚えることがある
- 父は年を取ってから穏やかな人柄になり、諦念したように見える
- その哲学者は、苦闘の結果、諦念という認識に到達した
「諦念」の類語とは?
類語①「諦観」の意味は”真理をあきらかに見て取ること”
「諦観(ていかん・たいかん)」とは、「真理をあきらかに見て取ること」という意味です。その心の内を表すのではなく、見ている状態を表します。「諦念」と同じく、仏教の教えの意味が含まれた言葉です。
真理をあきらかに見て取る様子を表すことから、「諦念」を「真理を諦観する心」と説明することができます。「観」とは「明らかに見る」という意味があり、「念」は「心のなかの思い」という意味の違いがあります。
諦念した心の様子について、一歩引いて客観的に見て取っていることを「すべてをやりつくして諦観している」というように表現できます。
類語②「達観」の意味は”広く大きな見通しを持つこと”
「達観(たっかん)」とは、細かいことや俗事に惑わされず、広く大きな見通しをもつことをいいます。「人生を達観する」と言うときは、何事にも動じない、悟りの境地に立っていることを表現します。
広く大きな見通しという客観的な見地に立つという意味合いが含まれるところが「諦念」との違いです。
「諦念」の対義語・反対語とは?
対義語①「執念」の意味は”物事にとらわれた心”
「執念(しゅうねん)」とは、物事にとらわれ、片時も忘れずに執着する心を表します。「執念深い」「執念を燃やす」などと、異常なほど強い気持ちを表す言い回しが多い言葉です。
先に紹介した仏教の考え方においては、「苦」の原因は「煩悩への執着」であるため、執念にとらわれた状態は「諦念」の反対の心の状態だといえます。
対義語②「迷妄」の意味は”真理がわからず、迷う心のこと”
「迷妄(めいもう)」とは、物事の真理がわからず、誤った考えを事実だと思い込むことをいいます。「迷妄を打破する」「迷妄を破る」などと言うように、「迷妄」は打ち破りたい対象であるといえます。
「迷妄」する原因は真理がわからないことであるため、「諦念」の境地に達することが迷妄を打破した状態であるといえます。
まとめ
「諦念」とは、「迷いを去った境地」のことをいいます。「諦めの境地に達すること」と説明されることもありますが、その「諦め」の意味は「無理だと断念する」ということではなく、「こだわりのない悟りの境地に達する」という仏教の意味合いを含んだ意味として使われます。
「諦念」は、執着や迷いを手放して自由を得た心の境地を表す、ポジティブな言葉として捉えることもできます。