「泣いて馬謖を斬る」の意味と使い方!三国志の背景と合わせて解説

「泣いて馬謖を斬る(ないて ばしょくをきる)」とは、故事成語です。中国古典の三国志の中で使われた言葉で、現代でもこの言葉を引用して、気持ちを代弁する場合もあります。今回は「泣いて馬謖を斬る」の意味と使い方、また三国志での使われ方の背景について解説します。

「泣いて馬謖を斬る」の意味や使い方とは?

意味は「私情を捨てて規律を通す」

「泣いて馬謖を斬る」の意味は、「将たる者は私情を捨てて大義を守る」です。ゲームや漫画のモチーフとしても根強い人気を誇る「三国志(さんごくし)」を題材とした故事成語です。また、いかに有能で将来有望な人物であっても、法や規律の支配から逃れることはできないとの戒めが込められた言葉でもあり、多くの魅力的なエピソードをもつ三国志物語の中でも、とくに切なく胸を打つ名場面のひとつです。

「斬る」とは斬首刑のこと

「馬謖(ばしょく)」は、三国時代のカリスマ軍師として有名な「諸葛亮 孔明(しょかつりょう こうめい)」が実の子のように可愛がり、後継者として期待をかけていた「馬謖 幼常(ばしょく ようじょう)」という人物で、諸葛亮の弟分だった「馬良 季常(ばりょう きじょう)」の実弟でもありました。しかし大切な場面で諸葛亮の命令に背いた馬謖は、独自の作戦に失敗して諸葛の軍を大敗させてしまいます。クールな諸葛亮は軍律を守るための見せしめとして、馬謖を斬る(死刑)というきびしい処断を下しました。

「私情」とは利己的な愛情のこと

たった一度の失敗で有能な部下を殺してしまった諸葛亮は冷徹な上司かもしれませんが、依怙贔屓(えこひいき)によって軍規が乱れるようなことがあれば、たとえ天才軍師でも優位に戦うことは不可能です。人はときに正義を曲げてでも身内を優先させようとして破滅することがありますが、公(おおやけ)の場である社会において個人的な感情は「私情(しじょう)」と呼ばれ、公平で健全なビジネスの場からは排除されます。

「泣いて馬謖を斬る」を使った例文

  • ケガをしないことも一流選手の条件ではあるが、あれほどチームに貢献した打者に戦力外通告を言い渡さなければならなかった監督は、泣いて馬謖を斬る思いだったことだろう。

「泣いて馬謖を斬る」は、実力も過去の実績もある部下が、今は全体のためにならないと判断されたときの例え話として用いられます。特定の組織の中で責任ある人物が、恩や愛着と言った個人の感情ではなく公の立場を優先する場合です。また、主旨からは少し離れますが、家族経営に行き詰った社長が身内を名ばかりの役員の座から降ろすようなときにも使われることがあります。

「泣いて馬謖を斬る」の背景は?

出典は「三国志」蜀書 諸葛亮伝など

「泣いて馬謖を斬る」の物語が美談として多くの人から愛されている理由について知るために、その出処である「三国志」についてもう少し詳しく紹介します。三国志の舞台は、いまの中国が「魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)」という3つの国に分かれていた西暦200年頃で、中国王朝の正史「二十四史(にじゅうしし)」のひとつです。諸葛亮や馬謖は、「劉備 玄徳(りゅうび げんとく)」を君主とする蜀の国の人でした。

魏と蜀による「街亭の戦い」

「泣いて馬謖を斬る」の原因となった「街亭の戦い(がいていのたたかい)」は、先帝時代からの宿敵・魏との間で228年に起きた戦争です。歴戦の武将たちを抑えて指揮官に大抜擢された馬謖は、敵軍の別動隊が進軍するのを阻止するべく、大軍を率いて要衝の地である街亭の町に布陣を構えるよう命じられました。ところが馬謖は命令に反して持ち場を守らず山に上り、敵軍を素通りさせた挙げ句に水路まで絶たれて山頂で孤立するという大失態を演じてしまいます。

馬謖はなぜ暴走したのか

軍事的才覚に恵まれ、諸葛亮を実の親のように慕っていた馬謖ですが、最後まで命令に背いたことへの反省を述べることはありませんでした。それどころか、「自分は諸葛亮を恨まない」とさえ言い残しているところを見ると、馬謖は諸葛亮に何かを期待して違反を犯したとも考えられます。

当時の軍内では街亭の戦いを千載一遇のチャンスととらえ、もっと積極的に攻め上がって一気に勝利を収めようとする意見がありました。それらは慎重派の諸葛亮から採用されることはありませんでしたが、馬謖はほかの忠臣が進言して却下された作戦でも、自分がうまく取り入って指揮官になり、土壇場で別の作戦に切り替えれば諸葛亮が合わせてくれるはずだと踏んだのではないでしょうか。

諸葛亮が泣いた本当の理由とは

「正史」と「三国志演義」で解釈が違う

いつも冷静沈着な諸葛亮が、愛弟子の馬謖を違反者として厳しく罰したのち、馬謖のために声をあげて泣いたというストーリーは中国の歴史書として長く読まれている「正史・三国志」が由来です。一方、時代小説である「三国志演義(孔明揮涙斬馬謖)」では、諸葛亮は人を見る目がなかった己の不明を嘆いて泣いたのだと書かれています。諸葛亮が若いときから仕えた蜀の初代皇帝・劉備玄徳は、生前から馬謖の狡猾さを嫌って「重用するな」と言っていたのに、諸葛亮はそれを守らなかったという訳です。

そのほかの異説も多数あり

中国はもとより、日本やそのほかの国でも広く親しまれている三国志には、実にさまざまな異説が存在しており、その登場人物はゆうに1000人を超えるといわれています。その中には、諸葛亮は馬謖を「斬らずに獄死させた」説や、投獄された馬謖が脱獄したため2度までは違反を不問にでできず「結局は泣いて斬首した」説など、興味深いものもたくさんあります。

まとめ

ゲームや古典でもおなじみ「三国志」のエピソードの中から、ちょっと切ない「泣いて馬謖を斬る」の故事成語を紹介しました。「三国志」はダイナミックな中国の時代物語とともに、それぞれのキャラクターに豊かな人間味が感じられる奥深い人生模様が魅力です。ぜひこの機会に身近な「三国志」を手に取ってみてはいかがでしょうか。