「清濁併せ呑む」の意味とは?正しい使い方と誤用・類語も解説

「清濁併せ呑む」という言葉を聞いて政治家をイメージする人が多いのではないでしょうか?また「清濁併せ呑む器」が理想のリーダー像だと語られることもあります。

しかしなぜ「清濁併せ呑む」が指導者と結び付けられるのでしょうか。「清濁併せ呑む」のことわざについて、その意味を背景とともに解説します。

「清濁併せ呑む」の意味と読み方とは?

「清濁併せ呑む」について、まずはその言葉の意味と読み方から説明します。

「清濁併せ呑む」の意味は「器が大きいこと」

「清濁併せ呑む」の意味は、「器が大きいこと」です。清流も濁流も分け隔てなく受け入れる大海の様子から、器や度量の大きいことのたとえとして使われることわざです。

「清濁併せ呑む」の読み方は「せいだくあわせのむ」

「清濁併せ呑む」は「せいだくあわせのむ」と読みます。

「清濁(せいだく)」とは、「澄んでいることと濁っていること」で、「善と悪」や「善人と悪人」あるいは「賢者と愚者」など、相対する二つの意味を表します。

「清濁併せ呑む」の誤用やよくある間違い

「清濁併せ呑む」は誤用されやすいことわざです。誤用例を紹介します。

「清濁併せ飲む」は誤用

「呑む」は「敵を呑む」など、比喩的に用いる時の表現です。「飲む」は「水を飲む」というように液体などをのどに送り込むという意味のため、比喩の表現に「清濁併せ飲む」と書くのは間違いです。

「清濁併せ持つ人物」という意味ではない

「清濁併せ呑む」を「清濁併せ持つ人物」という意味だとするのは間違いです。清濁を善悪とするなら、「善悪両面を併せ持つ人物」という意味になるためです。

人物像として「清濁併せ呑む」のことわざを使って表すなら、「清濁併せ呑む人物」「清濁併せ呑むことができる人」などになります。

「酸いも甘いも噛み分ける」の意味とは違う

「酸いも甘いも噛み分ける」とは、「人生経験を積み、世の中の人情や、裏も表も知り尽くしていること」のたとえの言葉です。

「清濁併せ呑む」の「善も悪も分け隔てなく受け入れる」という意味から、「善悪を知り尽くしている」という意味の「酸いも甘いも噛み分ける」が連想されることがあるようですが、両者は違う意味です。

「清濁併せ呑む」の正しい使い方は?

「清濁併せ呑む」のことわざは、「善も悪も分け隔てなく受け入れる」という、幅広い解釈が可能な内容を含んでいるため、さまざまな解釈がされています。

「器が大きいこと」という、良い意味のたとえとしても使われたり、百戦錬磨の政治家をたとえたりするときに使われたりします。

「清濁併せ呑む」を理想的なリーダーの器に例える場合

多くの人の先頭に立ち、さまざまな矛盾や葛藤を乗り越えて、目的を達成する使命を背負うリーダーの器として、「清濁併せ呑む」というたとえがよく用いられます。

大きな目的を達成するためには、時として理不尽なことや本意ではないことでも心のうちにしまい込み、目標達成にむかって前進できるような、ぶれない強い心が必要とされるためです。

「清濁併せ呑む」を政治家像に例える場合とその例文

また、表と裏を使い分けてまい進していくイメージのある政治家を語る時に「清濁併せ呑む」がよく使われます。「清濁併せ持つ政治家が真の政治家である」とは、よく言われることです。

しかし、「理想を掲げつつも「清濁併せ呑む」といった大きな度量を持つ政治家が求められる」という論調には、「矛盾」が示されています。「理想を掲げつつも」の表現には、表に掲げた理想とは別に、裏では理想に反することも平然と行えることが大きい度量であるとの意味が含まれています。

先に説明した司馬遷の「法で統治することと、徳や礼を重んじることは別である」という言葉の意味が理想の政治家像に重なるといえるのではないでしょうか。

「清濁併せ呑む」の類語と対義語

「清濁併せ呑む」の類語は「来るもの拒まず」など多数

「多くのものを受け入れる大きな心を持つ」という意味の表現はたくさんあります。「来るもの拒まず」「度量が大きい」「懐が深い」「寛容な」「器が大きい」などです。

これらの表現には「濁=悪」の表現は含まれないため、矛盾をついた表現には用いられないことが「清濁併せ呑む」との違いです。

「清濁併せ呑む」の対義語は「勧善懲悪」

「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)」とは、善良な行いや善人を奨励して、悪い行いや悪人を懲らしめることをいいます。善悪をはっきりと分けて、悪を排除するという意味で、「清濁併せ呑む」の対義語と考えることができます。

「清濁併せ呑む」に関する豆知識

「清濁併せ呑む」の出典は「史記」との説

「清濁併せ呑む」の出典ははっきりしていませんが、中国前漢時代の歴史書である、司馬遷の記した「史記」の中にある、法律に威をかざした人を批判した「酷吏列伝」にそれに類する記述があります。

法令は治の具にして制治清濁の源に非ず

このような記述で、法令はあくまで統治のための道具であり、清濁を裁くものではない、という意味です。

この言葉は、「法律や刑罰で統治しようとすると人は裏で悪事を行うが、徳や礼で治めれば悪事を恥じて正しいことをする」という孔子の言に対する司馬遷の考えを表したものです。

四字熟語では「清濁併呑」

「清濁併せ呑む」は四字熟語では「清濁併呑(せいだくへいどん)」と書きます。日本漢字能力検定では準一級に出題される漢字で、一般にはほとんど使用されない漢字として分類されています。

まとめ

「清濁併せ呑む」とは、「器や度量の大きいこと」のたとえとして使われる言葉ですが、「善悪」の両方を受け入れる、つまり「悪」も受け入れるという表現であることから、その度量の大きさの裏の部分にフォーカスされることが多くあります。

理不尽なことに打ち勝ちながら、ぶれない心で目標達成することを使命とする、理想のリーダー像のジレンマを、「清濁併せ呑む」はうまく解消してくれる言葉なのかもしれません。