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「釈迦に説法」の意味とは?ビジネスでの使い方と似たことわざも

「釈迦に説法」とは「見当違いで愚かな行為」に対して使われることわざの一つです。たとえば、素人がプロに教え込む様子に対して「何と愚かなことを」という皮肉めいたニュアンスで使われます。

この記事では、「釈迦に説法」の意味やビジネスシーンでの使い方、似た意味のことわざ「猫に小判」との違いと言い換え表現もご紹介します。

「釈迦に説法」の意味とは?

「釈迦に説法」とはその道の達人に説く愚かさを表す

「釈迦に説法」ということわざは、ある分野の達人やその道を知り尽くしている人に、そのことを説くことの愚かさを表しています。「釈迦」とは誰もが知る「仏教の創始者」で、キリストや孔子と並ぶ世界三大聖人の一人です。その釈迦に仏教の教義を説き話すという状況を示しています。

たとえば、寿司職人として経験20年のベテランに、修行中の者が寿司についてあれこれと説くことは、愚かで身の程知らずな行為だと言えます。知識や能力が高い人に、まだ未熟な人がそのことを説くのは

「釈迦に説法」の由来は釈迦に仏教を説く行為

「釈迦に説法」の由来は「釈迦に仏教の云々を教えるという、愚かな行為」です。「釈迦」は生まれてすぐ歩き出し「天上天下、唯我の尊しと為す」と言ったとされ、若くして出家をし仏教の創始者として多くの人から敬われました。

その釈迦に対して、仏教の教義をつらつらと述べるのは失礼であり、また周囲から見れば相当に愚かなことのように映ることでしょう。「釈迦に説法」はこの状況を皮肉って生まれたことわざです。

「釈迦に説法」と「猫に小判」の違い

「釈迦に説法」の言い換えとして、「猫に小判」ということわざが使われていることがあります。「猫に小判」とは「価値の理解できない人に高価なものを与えても無駄なこと」という意味です。

「釈迦に説法」との違いは大きく2つあります。まず「価値が理解できない相手」であること、そして「相手への行為が無駄である」ということを表す点です。「猫に小判」は、どちらかというと相手をけなすニュアンスで使われることが多いため、「釈迦に説法」と同じ意味で使ってしまうと失礼になるため注意しましょう。

「釈迦に説法」の使い方と例文

「釈迦に説法」を皮肉の意味で使う

「釈迦に説法」とは、素人が専門家に向かってあれこれとアドバイスしたり、教えようとするような状況で使われます。専門家はある分野における知識や経験が豊富なため、それを教えることが仕事でもあります。そのような立場の人に、その道のことや極意を説くとは何とも愚かな行為です。

このような状況に皮肉を込めて使うのが「釈迦に説法」となります。周囲からすれば、身分に不相応で分をわきまえない行為でもあるでしょう。

同じような上下関係を挙げるとすれば、「プロとアマチュア」「教師と生徒」「上司と部下」などがあります。

ビジネスシーンで「釈迦に説法ですが~」と謙遜する

ビジネスシーンにおいて、「釈迦に説法」を謙遜の意味で使うことがあります。たとえば、自分より知識や経験が豊富な人に提案をする場合です。「釈迦に説法ですが、今回は〇〇のほうがお客様に喜んでもらえると思います」のように使います。

相手によっては自分の考えを否定されていると感じる人もいるため、より丁寧に「釈迦に説法ですが~と存じます」という表現を使うとよいでしょう。

「釈迦に説法」を使った例文

  • 釈迦に説法で、新人が社長に向かって経営戦略を説くのは間違っている
  • 素人がプロの料理人に包丁の研ぎ方を教えようとするのは、釈迦に説法だ
  • 釈迦に説法ですが、顧客層にあわせてプランを調整したほうがよいと思います

「釈迦に説法」と似た意味のことわざ・言い換え

類語1「孔子に悟道」はその道の達人に教え説く愚かさ

「孔子に悟道(こうしにごどう)」とは、「その道の達人に、その道を教え説くという愚かさ」を意味する言葉です。

多くは「釈迦に説法、孔子に悟道」というように、「釈迦の説法」の後に続けて使います。同じ意味のことわざを重ねることで「その分野を知り尽くしている人に、その分野のことを教える」という意味を強調しています。

類語2「猿に木登り」は得意とする者に教える愚かさ

「猿に木登り」とは「得意とする者に教えることの愚かさ」を意味することわざです。猿は木登りが得意ですが、その猿にあえて木登りを教えるとは愚かな行為だと言えます。

このように、ある事柄に精通している人に対して、手段や仕方を教えることの無駄さを滑稽に言い表したのが「猿に木登り」です。

類語3「河童に水練」は見当違いで無駄なこと

「河童に水練(かっぱにすいれん)」とは、「見当違いで無駄なこと」をたとえることわざです。

言葉通り「泳ぐことを得意とする河童に、泳ぎ方の訓練をするという行為は見当違いで無駄なこと」を意味し、転じて「あることが得意な人に、それを教え込むのはピントがずれていて無意味なことである」というニュアンスで使われます。

「釈迦に説法」の英語フレーズとは?

英語1「preach to the choir」

「preach to the choir(聖歌隊に向かって説教をする) 」は、英語圏で「釈迦に説法」と同じニュアンスでよく使われます。聖歌隊の人たちは教会に属する音楽隊で、教会の教示や一般教養に長けている人たちが多いです。その人たちに対して説教をする状況を「愚かな行為」と解釈し、皮肉の意図で使われるのが「preach to the choir」です。

英語2「Don’t teach fishes to swim」

「Don’t teach fishes to swim(魚に泳ぎ方を教えるな)」は、プロに対してアマチュアがとやかく口挟んだり、その方法を教え込もうとする行為に対して「身分をわきまえない無意味な行為」という意味で使われます。

もともと水の中で生活する魚に、泳ぎ方を教えることほど愚かなことはありません。ある分野に精通している人に対し、そうでない人がレクチャーするのはやはり愚かな行為と言えます。こちらも英語圏では「釈迦に説教」とほぼ同じ意味で使われます。

まとめ

「釈迦に説法(しゃかにせっぽう)」とは「釈迦に仏教の教義を教え説くことの愚かさ」を意味します。素人がプロにその道を説いたり、その道を知り尽くしている人に極意を語るといった行為を皮肉ったことわざです。

また、自分をへりくだって相手への尊敬の念を表す際にも使うことができます。ビジネスシーンで上司や取引先の人に使うと丁寧な印象になるでしょう。