「厭世観(えんせいかん)」は、仏教とも関りの深い心理用語の一つであることをご存知でしょうか?小説のジャンルにおいても「厭世観」を題材にしたものが多くあり、誰もが持ち得る心の状態を描写するものとして人気があります。
ここでは「厭世観」にスポットを当てて、言葉の意味と使い方、類語表現などをご紹介していきます。わかりやすい例文とあわせて解説していきましょう。
「厭世観」とは?
「厭世観」の意味は”不幸に満ちているという世界観”
「厭世観」の意味は、“人生は不幸に満ちていると感じる世界観や考え”です。厭世主義をベースに社会は悪に満たされ、善いことが少ないとする態度や思想を意味しています。
「厭世観」があると、毎日の生活で幸福や満足感を得ることができなくなります。そのため、人の行動やモノのあり方に積極的な態度やプラス価値が見出せなくなるのが特徴です。このように、物事の成り行きや結果に対して、ネガティブに考えてしまう傾向や悲観的な態度などを「厭世観」と呼んでいます。
「厭世観」とは”ネガティブな人生観に基づく哲学上の立場”
「厭世観」とは、“人生の全てにおいて幸せだと感じることができず、前向きな態度を受け入れることができない態度や姿勢”を指します。こういった人生観に基づく哲学上の立場、またそういった心理的な傾向を「厭世観」という言葉で表すことがあります。
「厭世観」は英語で”pessimism”
「厭世観」は英語で”pessimism(ペシミズム)”と言います。近年では「オプティミズム(楽天主義)」と反対の意味を持つ言葉として「ペシミズム」というカタカナ語も使われるようになってきました。
ちなみに「ペシミズム」で知られる代表的な人物には、孤高の生涯を送ったギリシャの哲学者「ヘラクレイトス」、また弁論術を唱えた思想家「ソフィスト」などがいます。
仏教は釈迦の「厭世観」から始まった?
「厭世観」は仏教とも深い関りがあります。そもそも仏教とはお釈迦様が持つ「厭世観」から始まったもので、世や人を助ける仏教の軸となる教えは「ペシミズム」が根源と言われています。つまり、仏教は「厭世観」が存在しなければ正常に機能せず、「厭世観」がなければ、もはや仏教でなくなってしまうということになります。
相手に憐れみを感じ、救いの手を差し伸べるのが仏教です。そのため「厭世観」という思想が出発点となったことは容易に理解できるかもしれません。
「厭世観」の使い方と例文とは?
「厭世観」は相手を非難する意図で使わない
「厭世観」とは、ポジティブなイメージを持つ心の様子や世界観とは言い難いものがあります。「厭世観」が強い人は、おおむね物事に対しての解釈が悲観的で、積極的な態度や考え方を受け入れようとしない傾向が強いからです。
しかし、だからといって「厭世観」を強く持つ人を非難するような意図で、相手を揶揄したり卑下することは適切とは言えません。なぜなら「厭世観」とはある種の哲学的な考えに基づいた心理状態であり、個性や個人が持つ考えや思考の傾向に過ぎないからです。
たとえば「Aさんて、厭世観のかたまりみたいな人だよね」と影で言ったり、「私はポジティブ思考が強いから、厭世観のある人とは話ができない」と、自分主体で相手と比較してしまわないように心がけましょう。
「厭世観」を使った例文
「厭世観」を使った例文をいくつかご紹介しましょう。
- 兄は厭世観があるせいか、常に最悪の結果を予想するクセがあるようだ。
- 厭世観が強いと、トラブルが起こった時に前向きに対処することができないよ。
- この世は悪で埋もれている。そう信じている知人は厭世観に支配されているように見える。
- 楽天的な私と、厭世観で満ちている彼。果たして結婚しても上手くやっていけるだろうか。
- 厭世観を持つわけではないが、仕事に対しては人一倍、心配性でネガティブになってしまう。
「厭世観」の類語とは?
類語①「世を果無む」は”人生のものごとが果かなく空しい”
「世を果無む(よをはかなむ)」とは、この世を空しいと感じることを意味します。人生に存在するものや人生の成り行きは頼りなく、全てが空しく儚いと考えることを表す言葉です。「世を果無む」は思考や態度において積極的とは言えず、どちらかと言えば悲観的でマイナス思考が強いと言えます。
「厭世観」との違いは、空しいという感情に浸り、物思いにふけるようなニュアンスが強いことです。
- 父は世を果無む川柳を詠うのが得意である。
- 最近は悲しい事件が多く、世を果無むことが増えてきた。
類語②「拗ね者」は”つむじまがりなこと”
「拗ね者(すねもの)」とは”つむじまがりなこと”という意味があります。他人と強調したり調和を保つことができず、思考や態度が悲観的でひねくれていること、またそういう人を指す言葉です。
「厭世観」を持つ人も、おおむね一般的な人とは調和がとりにくいものです。世間ではポジティブシンキングが持てはやされる中、やはり「厭世観」を持つ人は「ひねくれもの」と映ってしまうこともあるでしょう。
また、「厭世観」との違いは、思考が頑固で付き合いが難しい人というニュアンスが強いことです。「拗ね者」は言葉が持つ性質上、相手をネガティブに捉えてしまう傾向が強いとも言えます。
- 職人気質なのは尊敬できるが、かなりの拗ね者でもある。
- 拗ね者でもいい。しかし、常に人を批判したり見下したりする態度は改めた方がいい。
まとめ
「厭世観(えんせいかん)」とは、人生は不幸に満ち溢れているという考える傾向や世界観を表す言葉です。社会や世間には善がほとんどなく、悪や不公平などというネガティブなものばかりが存在しているという心理状況を表しています。
「厭世観」は英語では「pessimism(ペシミズム)」です。楽天主義を意味する「オプティミズム」の反対を意味するカタカナ語としても使われ、人の性格や考え方を位置づける表現としても知られています。加えて、日本で広く信仰される仏教は釈迦の厭世観やペシミズムが出発点だとも言われています。