神社は身近な存在だけれど、「神道」についてはよく知らないという人が多いのではないでしょうか。日本固有の宗教でありながらベールに包まれたような「神道」について、きちんと説明できないもどかしさはありませんか?
ここでは主に神道の歴史についてわかりやすくまとめて解説しますので、参考にしてください。
「神道」とは?
まずはじめに神道の概要を説明します。
「神道」の定義は「日本固有の民俗宗教」
「神道」とは、日本固有の民俗宗教と定義されます。しかし日本人が「神道」というときに思い浮かべるのは、地鎮祭や神社への参拝などの民俗的な風習をさすのが一般的です。そのため、外国人などに神道について説明しようしたとき、一神教で聖書が聖典であるキリスト教などのように明確な説明ができない状態におちいります。
「神道」の起源と概念は多重構造になっている
「神道」の根本は古代日本に自然発生的に生まれた自然信仰ですが、歴史が進むとともにさまざまな解釈や意味合いが結び付けられ、その定義が上書き、または追加され続けてきました。
そのため、「神道」の存在は現代の日本人の心の中で多重構造になっているといえます。その層を大きく分けると、先に挙げたような民族的な風習としての「神道」と、そこに思想的な解釈を加えた「神道」、さらに政治支配に利用された「神道」の3つの存在です。
情報を整理するため、このあとは3つの層ごとに「神道」の内容を説明します。
民族的風習としての「神道」とは?
はじめに古代から続く日本民族の風習としての神道についてまとめます。
古代は素朴な「自然信仰」だった
有史以前の古い時代から、日本人は山や火などの自然や、土着の民族神や外来の神なども融合した「八百万(やおよろず)の神」を信仰しており、「神道」という概念はありませんでした。
それらは原始神道(古神道)とよばれ、「聖典」というものはありませんでした。古代日本における信仰の原型は、本来は自然や土着の神々に対する素朴な信仰であり、共同体の安泰を祈るものだったのです。
またその時代にはまだ神社というものはなく、山や木や場所などがご神体となっていました。祭りの時には神が降臨する神籬(ひもろぎ)という依り代をたて、その場所を常緑樹で囲いましたが、祭りが終わると取り払われました。その時に立てる仮小屋のことを「社(やしろ)」といい、それがのちに神社の原型となりました。
思想的解釈を加えた「神道」とは?
そのような原始神道に奈良時代以降、さまざまな転機が訪れてゆきます。ここからは思想的解釈が加わった神道について説明します。
聖典が『日本書紀』と『古事記』となる
最初の転機が訪れるのは8世紀初頭に『日本書紀』と『古事記』という日本初の歴史書が著されたときです。この歴史書により、国内、国外に向けて、日本は神を祖先とする天皇を中心とした国家であることが示されます。それと同時に「神道」という言葉が初めて記され、「神道」の聖典は『日本書紀』と『古事記』となります。
『日本書紀』において「天照大御神」が最高神とされる
『日本書紀』において、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」が皇祖神であり日本民族の最高神とされ、天照大御神を祀る伊勢神宮が日本の神々を司る頂点の神域とされました。
奈良時代には仏教と結びついて「神仏習合」となる
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本古来の自然神への信仰と仏教が一つの信仰体系として結びついたことをいいます。奈良時代には寺院に神が祀られており、この形はその後千年以上に渡って続きました。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいいます。
神道で死後の世界の絵巻のような「死」は扱わない
それとともに、死穢(しえ)は仏教の管理下に置かれ、神社は神祭の場という分業が行われてゆきました。今日の神社で死を穢れとして忌避するのはこの頃から強い傾向となったといわれています。そのことから、神社には墓や仏壇、あるいは死後の世界の絵巻のような「死」に関わる事物は一切存在しないのです。
神仏を調和させる理論「本地垂迹説」が成立する
鎌倉時代には、神と仏を調和させる理論的裏付けである「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が生まれます。「本地垂迹説」とは、八百万の神々は、実は衆生を救済するために仏や菩薩の化身として現れたとする考え方です。
政治支配に利用された「神道」とは?
次に明治維新以降の、政治支配に利用された神道について説明します。
明治維新により「神仏分離令」が発布される
明治維新後の新政府によって、「文明化」の施策として神仏判然令(神仏分離令)が発布されます。神仏分離政策は天皇制復古と祭政一致を行うために神道と仏教を分離させたもので、神社から仏像や経巻などが取り払われました。
明治政府により「民間信仰禁止政策」がとられる
神仏分離とともに、修験道や陰陽道の廃止や伝統的習俗などが禁止されました。さらに神社の祭神も古来からまつられていたその土地の神々から『古事記』、『日本書紀』などに著されている皇統譜につながる神々に多くが変更されました。そのため、地域での伝承が途絶え、その神社の古来の祭神が不明になってしまった神社も多くあります。
神社の祭神の例をひとつ挙げると、「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている「富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)」の主祭神は『古事記』の「木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)」ですが、近代以前は「浅間(あさま)」という「火山」を表した「浅間大神(アサマノオオカミ)」の名の神が信仰されていました。
明治政府により「国家神道」が作られGHQにより解体される
さらに、明治政府によって政策的な意図のもと「国家神道(こっかしんとう)」という一種の国教制度がつくられます。国家神道では天皇の崇拝と国家主義思想を重要な思想としていました。
第二次世界大戦後には、連合軍総司令部(GHQ)による占領政策の一環として政教分離が行われ、国家神道は解体されます。
現代における「神道」
戦後から現在においては、民主主義の憲法のもと、日本人は宗教の自由が保障されています。しかし、戦後の片寄った歴史教育や、新興宗教による事件などの影響から、「宗教」という概念に対してネガティブなイメージがついたこともあり、国民全体の風潮として、宗教と向き合うことを避けてきた側面もあります。
その一方で、政治的に利用されてきた思想的解釈を付加した神道とは別に、古来の素朴な自然信仰の系譜である「主に神社を中心とした風習としての神道」については、日本人の生活の中で途絶えることなく続いています。
「神道」の英語表現は?
英語表現は「Shinto」「Shintoism」
神道は英語でそのまま「Shinto」または「Shintoism」といいます。神社は「Shinto shrine」です。神社仏閣は「Shinto shrines and Buddhist temples」または「 Shrines and Temples」と表します。
まとめ
「神道」は、もともと素朴な自然への信仰だったものが、長い歴史の中で紆余曲折を経た結果、現在のような神社を中心とした日本人の慣習としての「神道」に落ち着いたといえます。そこには明確な教義がないため、宗教として語ろうとすることに無理があるのかもしれません。
日本人にとっての固有の宗教を説明するとき、歴史的に付着した思想的な付属物を取り除き、原始神道そのものを説明するのが一番よい方法なのかもしれません。