「弘法大師」は「空海」のおくりな(贈り名)ですが、その実像から離れ「お大師様」として信仰の対象となっています。さらに数多くの奇想天外な「弘法大師伝説」とともに、人々に慕われ続けている不思議な存在が「弘法大師」です。
信仰の対象となった「弘法大師」と、真言密教の開祖である「空海」の実像に大きな開きがあるのはなぜなのでしょうか。その概要を解説します。
「弘法大師」とは?
まずはじめに、「弘法大師」について説明します。
「弘法大師」は「空海」の諡号(しごう・おくりな)
「弘法大師」とは、空海の死から83年後に、後醍醐天皇から贈られた諡号(しごう)です。諡号とは、貴人などの死後、生前の功績を評価して贈られる名のことをいいます。つまり、空海が生きていた時には、お大師様と呼ばれることはなかったことになります。
「入定留身」信仰が続いている
空海は62歳でこの世を去り、記録からは荼毘(だび)に付されたとされますが、のちに「入定留身(にゅうじょうるしん)」信仰が始まります。入定留身とは、死後も肉体は残り、その霊魂は永遠に生きているとされる考えのことです。「入定信仰」ともいわれます。
「弘法大師伝説」が日本各地に残る
「弘法大師」の特徴として、全国各地に数多くの「伝説」が伝えられていることがあります。その数は5千以上ともされ、内容は多岐にわたりますが、杖をつくと水が湧き出たり、術を使って人々を助けたりと、まるで超人の所業のようなものがほとんどです。
このような伝説は、雲の上の存在である「弘法大師」として、全国の人々に厚く信仰されてきたあかしであるといえます。
「大師信仰」はなぜ広まったのか?
数多くの伝説とともに「大師信仰」は、なぜ全国にひろがったのでしょうか?
大師信仰を全国に広めたのは「高野聖」
空海は死後も生き続けて、人々のために祈りを続けているとする「入定信仰」を各地に広め、数々の伝説を生み出したのは、「高野聖(こうやひじり)」の活動です。「高野聖」とは、諸国を巡って加持祈祷(かじきとう)などを行いながら、人々から浄財を集める役割の僧侶のことをいいます。
その背景には、空海の死後、あとを継ぐ後継者が育たなかったことから、高野山は荒廃してゆき財政がひっ迫したことがあります。そこで空海を神格化し、現世利益の祈祷などを行うことで、その財源の確保に努めたのです。
あわせて、高野聖は井戸を掘るなどその土地で人々の救済活動も行い、それらの実績が大師信仰と結びついて伝説となったともいわれています。
「浄土信仰」と融合して「弘法大師」が神格化された
さらに、その時代には念仏を唱えるだけで浄土に行けるという「浄土信仰」が庶民の間に広がっていました。「空海が入定した高野山は浄土である」という教えも生まれ、空海そのものが神格化されてゆきました。
このようなことから、「真言密教」を体系化した実在の「空海」とは異なる、信仰の対象としての「弘法大師」が生まれていったのです。
「四国八十八カ所」を開創したとされるが史実ではない
信仰の上では、「弘法大師が四国八十八カ所を開創した」と伝えらえていますが、実際は異なり、空海の死後に弟子が空海ゆかりの寺院を訪ねて歩いたことが始まりとされています。
八十八カ所では、大師とともに四国霊場を巡る「同行二人(どうぎょうににん)」や、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」という空海の師から賜った名前を唱えたりする教えがあります。
「弘法大師」の実像「空海」とはどんな人物か
実際の「空海」の生涯とその実績について説明します。
「虚空蔵求聞持法」に出会い仏門に入る
「空海」は、774年に讃岐の国で生まれ、幼名を真魚(まお)といい、恵まれた環境で育ちます。18歳から官吏養成機関の大学で学びますが、世の中の不条理に疑問を感じ、仏教の学びを深め、山野で修行を行うようになります。
そのようなとき、人物は特定されていませんが、ある沙門(修行僧)から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」という法を授けられ、それを機に仏門に入ることを決意します。
「虚空蔵求聞持法」とは、8世紀に唐からもたらされた経典に記されている修法で、真言を50日から100日の間に百万回唱えると、すべての教法を暗記できるというものです。
人生を決定づけた神秘体験を得て「密教」を学ぶ
山野で荒行を続けていたところ、こののちの求道者としての一生を決定づけた、神秘体験を空海は得ます。その体験とは、土佐の室戸岬にある洞窟の中で虚空蔵求聞持法を修行していたところ、明星が水平線のかなたから現れ、空海のからだの中に飛び込んできたというものです。
このことで仏教の道に進むことを確信した空海は、24歳の時に初の著書である『三教指帰(さんごうしいき)』を著し、空海が仏道に入ることを反対していた家族などに対して出家宣言を行います。
唐から「真言密教」を持ち帰り、日本に根付かせた
空海は803年に唐に留学して「真言密教」を持ち帰り、帰国後は嵯峨天皇の信頼を得て東寺、東大寺、高野山に拠点を得て、密教を日本に定着させました。当時の仏教界は空海の真言密教に席巻され、密教ではない宗派の寺院にも密教の仏像や思想が導入されるほどでした。
密教の流布とともに、数多くの書物を著し、さらに土木工事などの公共事業の指導や、「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」という庶民を対象にした学校を開設するなど、幅広い活動を行いました。
「真言密教」と「大師信仰」は別のもの
結論からいえば、空海が体系化した教義である「真言密教」の教えと、一般民衆が信仰している「大師信仰」は全く別のものです。密教の教えは一般の人々には届かず、民衆が欲していた救世主の理想像に「弘法大師」があてはめられていったといえるでしょう。
■参考記事
「密教」とは何か?その教えや顕教との違いもわかりやすく解説!
弘法大師の言葉(名言・格言)とは?
「谷響きを惜しまず、明星来影す」
「たにひびきをおしまず、みょうじょうらいえいす」と読みます。谷はこだまをかえし、虚空蔵菩薩の化身とされる明星が姿を現した、という意味です。
光がからだに入った神秘体験を、24歳の時に著した『三教指帰』の中で表した言葉です。この体験は空海の一生を決めた決定的な体験でした。
「六大無碍にして常に瑜伽なり」
「ろくだいむげにしてつねにゆがなり」と読みます。地、水、火、風、空、そして人の心、それらが繋がり、融け合ってこの世界は存在している、という空海の世界観を語った言葉です。空海の書『即身成仏義』に書かれた言葉です。
「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなん」
迷う人が一人でもいるうちは、自分だけの悟りの世界にはけっして旅立たない、という意味です。
空海が59歳のとき、高野山で開かれた万燈万華会(まんどうまんげえ)において、詠った言葉です。この言葉がのちに「入定信仰」を支えました。
まとめ
「空海」の時代から1200年を経た現代まで、伝説となった「弘法大師」の信仰は続いています。それは空海が説いた密教の教義から離れ、先祖供養や浄土信仰、あるいは人生の岐路に立った時に導いてくれるような有難い存在として、人々の心の中に息づいているようです。
しかしそのような信仰が途切れることなく続き、また「お大師さん」と慕われるのは、空海その人に、それら全てを包み込む人としてのスケールの大きさや、根本的な明るさがあったからこそだともいえるでしょう。