20世紀の哲学に大きな影響を与えたマルティン・ハイデガー(1889年~1976年)の実存哲学とはどのようなものなのでしょうか?ここではハイデガーの「存在論」や、主著『存在と時間』で語られた思想や名言を紹介します。
「ハイデガー」とは?
ハイデガー哲学は実存主義哲学の基点
ハイデガーとは、20世紀最大の哲学者と呼ばれる、ドイツの哲学者です。フッサールの現象学に大きな影響を受け、フライブルク大学で教え、学長となりました。
1927年に刊行された主著『存在と時間』(Sein und Zeit)は、現代の実存主義哲学の流れの起点となっています。ハイデガー哲学のテーマは「存在」です。
ナチスに加担していた問題が論争されている
ハイデガーは第二次世界大戦中にナチスに入党し、ナチスの運動に加担していたという事実があります。1988年にヴィクトル・ファリアスが『ハイデガーとナチズム』を出版し、ハイデガーがナチストであったことを実証したことがきっかけとなり、ハイデガーの評価は肯定派と否定派に二分されて論争が行われています。
ハイデガーの思想とは?
存在の意味を解明した「存在論」
古代ギリシャの哲学者、アリストテレスが打ち立てた存在への問いは、西洋哲学の命題として長らく中心を占めてきました。ハイデガーは西洋哲学が真の存在を扱ってこなかったとして、西洋哲学の歴史は存在忘却の歴史だと批判しました。
ハイデガーは『存在と時間』において、存在の意味の解明を試み、人間の存在の本質はおのれ自身の自己了解のあり方によって規定されると論じ、新しい存在論を示しました。ハイデガーの存在論は、20世紀現代思想の礎石とされています。
「転回」後の後期思想は謎めいていった
ハイデガー哲学は前期と後期に分かれており、前期の実存思想から後期の存在思想への変化は「転回」と呼ばれます。転回以降のハイデガーの思想は深遠で難解なものになり、前期で論じた存在了解で支えられる「存在」は、後期においては、存在自身が存在了解を可能にしている存在であるという謎めいたものになっていきました。
後期哲学を代表する主著『形而上学入門』では、「人間自身の存在についての問いは、人間とは何か?から、人間とは誰か?という形に変えられねばならない」と述べられています。
『存在と時間』とは?
『存在と時間』は実存哲学の最高峰
ハイデガーの主著『存在と時間』(1927年刊行)は20世紀最大の書物であり、実存哲学の最高峰ともいわれる大書です。ハイデガーは本書において、伝統的な形而上学を解体し、新たな「存在の意味への問い」を打ち立てました。本書は発売と同時に大きな反響を呼び、その後の実存主義の思想に影響を与えました。
本書の主題は「存在の意味は時間である」という命題を証明することにあります。冒頭では次のように述べられています。
この論考の意図するところは、「存在」の意味への問いを具体的に掘り下げることである。そして私たちの当面の目標は、時間を解釈することで、時間があらゆる存在了解一般を可能にする地平であることを示すことにある。
『存在と時間』はもともと各部が3編から成る2部構成で構想されていましたが、出版されたのは第1部の2編までです。そのため、命題への証明は完了されないままに終わっています。
人間存在を「気遣い」と「道具」で説明
ハイデガーは人間存在を時間的な存在として解明するにあたり、日常世界における人間のあり方を「気遣い」と「道具」の言葉で説明します。気遣いとは関心や欲望のことを表し、その関心や欲望に応じて現れる存在が道具であるといいます。私たちの欲望や関心に相関される道具によって支えられている世界は、どのように生きるかを選択する時間的な場であるとしました。
実存的生き方と頽落
人間存在は時間の流れの中にあり、過去に世界とどうかかわったかによって現在があり、現在どのように世界にかかわるかで未来のあり方が決まる。このように時間を抱え込んで存在している中で、未来の可能性に自らを駆り立てて生きる生き方を実存的生き方と論じました。そして未来の可能性に目を向けず、同じ日常にとどまる生き方を「頽落(たいらく)」と表現して批判しました。
「死とは何か」で実存の本質を探る
ハイデガーは「死とは何か」を問うことで実存の本質を探り、現存在(人間のこと)は、死に至ってはじめて死と関わりを持つのではなく、生きているということ自体が、すでに死との関わりそのものであると論じました。人間は「死へと関わる存在」であり、その死という可能性との関わり方が現在の自分のあり方を規定しているといいます。
ハイデガーは「死」を「他ならぬ自分だけの、他から隔絶された、追い越しえない可能性」と規定します。そして現存在は死へと関わる存在から逃避しようとしており、実存の真理を覆い隠しているといい、さらに、死を「最極限の未了」と表現し、人間は常に未了であるとしました。
そして、死から自由になるために、自分の死を理解することを、死に先駆ける「先駆的了解(せんくてきりょうかい)」と表現し、そこに至ることで、死から逃亡せずに自分に今何ができるかに向かうことができるとしました。
つまり、人間は自分が死から逃れられないことを受け容れることよって、本来の存在に立ち戻ることができるのだとしたのです。これらの分析は「死の現存在分析」と呼ばれています。
ハイデガーの名言
「存在と時間」と「形而上学入門」から名言を紹介
最後にハイデガーの名言を紹介します。
◆『存在と時間』より
現存在の「本質」はその実存にある。わたしが存在者を「現存在」という名称で呼ぶときには、この名称は机や家や木のように、それが「何であるか」を示すのではなく、それが「存在するものであること」を示すのである。
存在者は、みずから存在することにおいて「みずからの存在」とかかわっているのであり、みずからにもっとも固有な可能性として、みずからの存在に向き合っている。
◆『形而上学入門』より
なぜ一体存在者があるのか、むしろ無があるのではないか?
人間はみずからに開けている所である。この中に存在者が入って作品へと達する。だから人間の存在は、語の厳密な意味において「現・存在」である
まとめ
ハイデガー哲学の一貫したテーマは「存在の問題」でした。「そもそも存在とは何か」という、存在が存在することそれ自体を問うたのがハイデガーの功績です。ハイデガー以前の西洋哲学では、存在すること自体の問いは扱われていなかったのです。
加えて刊行直後から人々を惹きつけ続けた、『存在と時間』で扱われた「死の現存在分析」は、死を捉えることが人間の生き方についての探求であるという可能性を提示しています。