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「行基」とは?行基菩薩や奈良の大仏のエピソードと年表を紹介

奈良時代の名僧といわれる「行基」は、行基菩薩と呼ばれるほど人々に慕われ、奈良(東大寺)の大仏の建立に携わった僧としても知られています。ここでは行基の生涯と功績を紹介し、あわせて奈良の大仏が造られた背景や、その時代の出来事を年表で紹介しています。

「行基」とは?

まずはじめに行基(ぎょうき:668年~749年)の生涯を紹介します。

行基は「法相宗」を修めた奈良時代の僧

行基とは、法相宗を修めた奈良時代の僧侶です。河内の国(大阪)に生まれ、15歳で出家し、寺や山中で修行を行い、法相宗(ほっそうしゅう)を学びました。法相宗とはインドの唯識派の思想を玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が翻訳して紹介し、弟子によって確立された教学です。日本では7世紀半ばに玄奘に師事した道昭(どうしょう)が法興寺で広めました。

読み方は「ぎょうき」

「行基」の読み方は「ぎょうき」です。

行基の師は玄奘三蔵に学んだ道昭

行基の師は道昭です。道昭は653年に遣唐使の一員として入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学びました。道昭は全国を遊行し、各地で土木事業などを行いました。行基も同じように井戸を掘るなどの公共的な事業を各地で行いましたが、師である道昭の影響が指摘されています。

行基、道昭ともに先祖は朝鮮半島からの渡来人です。当時の土木技術は渡来人から伝えられたため、技術の素地があったのではないかと推測されています。

行基は「知識結」を形成して社会事業を行った

行基は「知識結」(ちしきゆい)を形成して近畿地方を中心に数々の社会事業活動を行いました。知識結とは、奈良時代に盛んだった仏教信仰に関する事業を行う人々の集団のことで、造寺・造仏や慈善事業などを共同で行いました。

具体的には橋・堤防・用水池・道の整備・船着き場の整備などの工事を行ったほか、仏教を学ぶための道場や寺院も建設しました。

行基は貧しい人々に目を向け「行基菩薩」と呼ばれた

『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、行基は多くの人に仏の道を説いて回り、多くの人に慕われ、時には千人もの人が話しを聞きに集まったことが記されています。行基は特に貧しい人々に目を向け、慈善活動も行ったため、人々からは、ありがたい生き仏という意味をこめて「行基菩薩」と呼ばれていました。

行基菩薩像の呼び名で行基ゆかりの地や寺に多くの像が残されています。近鉄奈良駅前の行基広場に立つ、ブロンズの行基菩薩像が知られています。

行基は東大寺の奈良の大仏の建設責任者として活躍した

行基は当時禁止されていた無届けの説法や治療行為を行ったとして政府から問題視され、たびたび弾圧されていました。しかし民衆からの圧倒的な支持を得て圧力を跳ね返し、やがて聖武天皇に認められ、740年に東大寺の奈良の大仏造立の責任者として招へいされました。

朝廷が弾圧していた時は「小僧行基」と呼んでさげすんでいましたが、天皇は僧の中で最も高い位である大僧正(だいそうじょう)の位を行基に授けました。

行基は国中から寄付をつのり、弟子とともに献身的に大仏建立にむけて働きましたが、大仏と大仏殿の完成を待たずに82歳で生涯を終えました。

「奈良の大仏」とは何か?

行基が携わった奈良の大仏の建立にはどのような背景があったのでしょうか?次に奈良の大仏についてと、歴史の背景を説明します。

奈良の大仏は「毘盧舎那仏」

一般に奈良の大仏として知られる大仏は、正式な名称を「東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)」といい、奈良市の東大寺大仏殿の本尊です。盧舎那仏とは正式には「毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)」といい、サンスクリット語の「Vairocana・ヴァイローチャナ」を音訳した語です。毘盧舎那仏は仏陀を超えた宇宙仏で、宇宙の真理を人々に照らし、悟りに導く仏です。

「毘盧舎那仏」は『華厳経』の教主

大乗仏教の経典『華厳経(けごんきょう)』に毘盧舎那仏の教えが説かれています。奈良の大仏は華厳経の教えのもとに作られました。『華厳経』とは、釈迦(ゴータマ・ブッダ)が菩提樹の下で悟りを得てから第二の七日目に、普賢菩薩に説いた説法を著したものとされます。『華厳経』の教主は毘盧舎那仏です。

聖武天皇は仏教による国家繁栄を目指した

聖武天皇は天平12年(740年)にはじめて『華厳経』に触れ、一即多(一つのものが全宇宙と対応する)という壮大な思想に感銘を受け、その翌年には華厳経の思想に基づく廬舎那仏の建立を発願します。天平18年には奈良に遷都し、19年には大仏殿の建築と大仏の鋳造に取り掛かりました。

大仏殿と大仏が完成した翌年の天平勝宝4年(752年)の開眼法要では、インド僧の菩提遷那(ぼだいせんな)を導師として盛大な開眼法要が営まれました。

東大寺大仏殿と大仏は、それ以前もそれ以後も比肩するもののない、壮大な仏教世界の体現でした。聖武天皇は、仏教による国家繁栄を願うとともに、仏教を政治にも活かそうと考えていたのです。仏教を利用して世の乱れをしずめ、国の安定を図る政策のことを「鎮護国家(ちんごこっか)」といいます。

行基と行基が生きた時代

行基が生きた時代のエピソード

7世紀の終わりから8世紀の初めにかけて、日本は「鎮護国家」に向けて大きな変化を遂げました。天皇中心の政治体制を整えた大宝律令が制定され、天皇の業績を中心とした歴史書である『古事記』や『日本書紀』が著されたのもこの頃です。その流れの中で奈良の大仏が建立されました。

主な出来事を年表形式で紹介

※■が主な歴史の出来事です。

  • 668年(天智7年):河内で行基が生れる
  • 701年(大宝1年):■大宝律令が制定される
  • 704年(慶雲元年):山での修行を終えて都での布教と社会活動を始める(行基37歳)
  • 712年(和銅5年):■『古事記』が成立する
  • 717年(養老元年):朝廷から僧尼令違反として、布教活動を禁止される(行基50歳)
  • 720年(養老4年):■『日本書紀』が成立する
  • 724年(神亀元年):■聖武天皇が天皇に即位する
  • 740年(天平8年):東大寺の奈良の大仏造立の責任者として招へいされる(行基74歳)
  • 743年(天平15年):■大仏を造るおふれが出る
  • 745年(天平17年):大僧正の位を受ける(行基79歳)
  • 747年(天平19年):■大仏の鋳造がはじまる
  • 749年(天平感宝元年):■大仏の形がほぼ完成する。行基が菅原寺で亡くなる(行基82歳)
  • 751年(天平勝宝元年):■大仏殿が完成する
  • 752年(天平勝宝4年) :■大仏の開眼式を行う
  • 754年(天平勝宝6年) :■「鑑真」が来日する
  • 756年(天平勝宝8年) :■平城京で聖武天皇が亡くなる

まとめ

天平文化が花開いた時代、行基と聖武天皇は仏教の興隆に努めました。朝廷に小僧行基と呼ばれ弾圧されていた行基ですが、大仏建立にあたっては大僧正の位を与えられて協力を求められ、その期待に応えました。行基の慈善事業や仏教興隆への活動は、日本仏教の基底をなすものだと評価されています。