「悪人正機」の思想を表す「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というフレーズを聞いたことがある人もいるのではないでしょうか?この言葉は「親鸞」の弟子の唯円が書いた『歎異抄』の言葉ですが、一見しただけでは真の意味がとらえにくい言葉です。
この記事では、「悪人正機」の意味を正しく理解できるように、『歎異抄』の思想をわかりやすく解説します。悪人とは何を指するのかや、本願ぼこりの意味も紹介しています。
「悪人正機」の意味とは?
「悪人正機」の意味は”善人でさえ救われる、まして悪人はなおさらだ”
四字熟語「悪人正機」の意味は、”善人でさえ浄土へ往けるのだから、まして悪人はなおさらだ”です。この言葉を表面的に解釈しようとすると、「善人」より「悪人」が浄土に往くのにふさわしい、と述べているように思われるため、倫理・道徳的な疑問が生じるはずです。真の意味を理解するためには、親鸞の思想の理解が必要です。
「悪人正機」は『歎異抄』に書かれた思想:「悪人正機説」
「悪人正機(あくにんしょうき)」とは、『歎異抄(たんにしょう)』という仏教経典に書かれた思想のことで「悪人正機説」とも呼ばれます。
『歎異抄』は絶対他力信仰を説いた「親鸞」の弟子である「唯円」が、親鸞亡き後の世間の信仰の乱れを歎いて書いたものとされています。『歎異抄』についてはのちほど詳しく説明します。
「悪人正機」の仏教的な意味は”悪人を救うのが阿弥陀仏の本願”
「悪人正機」の意味を仏教の浄土信仰の側面から見ると、「悪人こそが阿弥陀仏の本願である救済の主正の根機」という意味となります。
浄土教では阿弥陀仏が信仰の対象であり、衆生を救うという阿弥陀仏の本願に基づいて、浄土に往生しようと願います。これを親鸞は、阿弥陀如来に全てを任せきる「他力本願(絶対他力)」の信仰として広めました。
阿弥陀仏とは、すべての人々をもれなく救うという誓いを立て、厳しい修行のもとに悟りを開いた仏のことで、その誓いを本願といい、「南無阿弥陀仏」とその名を呼ぶことを念仏といいます。
悪人こそが阿弥陀仏の救いの対象なのだと説く「悪人正機」は、阿弥陀仏の本願の真の意図を理解しないと理解が難しく、一般的な道徳基準の上では誤解されることの多い思想です。
『歎異抄』をわかりやすく解説
阿弥陀仏の本願の意味や、「悪人」の真の意味を理解するために、親鸞の教えを弟子の唯円が書き表わした『歎異抄』について解説します。
「悪人正機」の原文と現代語訳を紹介
『歎異抄』の第三章に書かれている、「悪人正機」を述べた箇所の原文と現代語訳をみてみましょう。
【原文】
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。」この条、いったんそのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。
【現代語訳】
善人でさえ救われる、まして悪人はなおさらである。だが世の人はつねに言う。「悪人でさえ往生できるのだから、ましてや善人はなおさらだ。」この考えは、一見もっともらしく思えるが、阿弥陀仏の本願の主旨に反するのである。
「悪人」と「善人」の意味を解説
「悪人正機」の意味を正しく理解するには、ここで言われている「善人」と「悪人」の意味を正しく理解する必要があります。
親鸞の主著である『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)や『歎異抄』には、「悪人」への言及が繰り返し出てきます。そこで説かれる悪人は、一般的な概念であるところの、倫理・道徳を逸脱した行為を行う人ではなく、「すべての人間の本質」を表しています。
親鸞は人間を次のように断言しています。
「一切の人間は穢悪汚染(えあくおせん)にして清浄の心はなく、そらごとばかりで真実の心はない」(教行信証)
煩悩にまみれ、永遠に苦しみから逃れられない人間を不憫に思い、阿弥陀仏は人々を必ず救うという本願を立てられたのであり、「悪人正機」における「悪人」とは、「人間」のことだということです。
「善人」については、『歎異抄』では「自力におぼれている人」、つまり阿弥陀仏に全てを頼らず、念仏を唱える自分の力で救われようとしている人だと説明しています。このような、自らの善を誇って自分の欺瞞や邪見に気がつかず、他力をたのむ心が欠けている「善人」のことを「自力作善(じりきさぜん)」の人といって親鸞は戒めています。
「悪」の解釈を誤解することを「本願ぼこり」という
『歎異抄』には、善悪の因縁を心得ず、どんな悪を犯しても助けるのが弥陀の本願だからと「悪」をおそれないのは、「本願ぼこり」で救われない、という記述があります。
実際に、悪いことをするほど往生できる、などと解釈して好んで悪を行う者も現れました。親鸞の没後、親鸞の教えが曲解される状況に危機感を感じた弟子の唯円が、親鸞の正しい教えを記録に残そうと書いたのが『歎異抄』なのです。
「悪人正機」の真の意味は「他力本願」の教え
つまり、「善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人はなおさらである」の真の意味とは、「他力をたのむ心が欠けている作善の人でさえ浄土へ生まれることができるのだから、自力では救われないことを悟った穢悪汚染の人間が、他力をたのめば往生できるのは当然である」ということになります。
この思想の根底には親鸞の「他力本願」の教えがあります。他力本願とは、「南無阿弥陀仏」という念仏によってしか人は救われないとする、親鸞が一生をかけて広め続けた阿弥陀如来にすべてを任せきるという生き方の思想です。
親鸞は、煩悩にまみれた人間や無常の世界はすべてそらごとで、そこに真実はなく、ただ念仏のみが真実であるといい、また、傲慢な思いに気づかずに善を励む人を阿弥陀の本願ではないといい、人々の常識を覆しました。
まとめ
「悪人正機」は、「善人でさえ救われる、まして悪人が救われるのはなおさらである」という親鸞の教えの思想です。一般的な常識で解釈しようとすると、「善人」と「悪人」の順序が逆ではないかと思われ、またそのために「悪いことをしたほうが救われる」と教えを曲解する人も現れました。
その真の意味を理解するには、親鸞の究極的な教えである「他力本願」を理解する必要があります。他力本願とは、煩悩や悪にまみれた自力では往生できない人間を救おうとする阿弥陀の本願に、ただひたすら念仏を唱えることによってのみ救われるという思想です。阿弥陀が救おうとする人間を、「悪人」と表現しているのです。
つまり、人間とは、それほどに罪深い存在なのだということを言っているとも解釈できます。「悪人正機」の真の意味を理解しようとするとき、私たちは親鸞が暴いた人間の本質に向き合うことになるのです。
■参考記事
【補足】吉本隆明と糸井重里の対談本『悪人正機』について
「悪人正機」や『歎異抄』は、その逆説的で深遠な思想から、数々の解説本が出版されていますが、『悪人正機』というタイトルで出版されている吉本隆明と糸井重里の対談本については、親鸞の思想や「悪人正機」に直接に関係する対談が収められているわけではありません。
『悪人正機』というタイトルがつけられたのは、おそらく糸井重里が「まえがき」において、「吉本隆明さんのことばが、ザラザラしたり意表をつくような逆説に見えても、聞いていて気持ちがいいのは、ごまかしたりウソをついてないからなのだと思う」と書いているように、吉本隆明の思想と親鸞の思想との親和性があるからなのではないかと推測されます。
本書は2001年に刊行されて以来、版を重ね続けています。親鸞が仏教書の中で最も多く取り上げられることが多いということとも共通して、常識や一般論にとらわれず、真実を語る言葉に惹かれる人が多いということではないでしょうか。