「バウハウス」とは何か?「宣言」からの歴史と建築や作品を紹介

モダンデザイン様式として「バウハウス Bauhaus」の名が知られていますが、その全体像はあまり知られていないといえます。バウハウスとは、第二次世界大戦前のドイツにおいて、14年間だけ存在したデザイン教育機関の名称です。この記事では、バウハウスの歴史や教育内容と、代表的な作品について解説します。



「バウハウス」とは何か?

「バウハウス」は世界初の本格的なデザイン教育機関

バウハウス(Bauhaus)は、1919年にドイツに設立された、世界初の本格的なデザイン教育機関です。それまでにも芸術家を対象とした美術学校や、専門技術を習得するための職能訓練校は各国に存在していましたが、芸術と産業を統合した総合的なデザイン教育はバウハウスから始まりました。

「ヴァルター・グロピウス」が創立し「バウハウス宣言」を行った

ベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863年~1957年)がザクセン大公に招かれて設立した、ヴァイマールの美術工芸学校がバウハウスの前身です。第一次世界大戦のため、1915年にドイツを去ることになったヴェルデは、ドイツの建築家ヴァルター・グロピウス(1883年~1969年)に後継を託しました。

工芸学校を引き継いだグロピウスは、1919年にヴァイマール共和国の国立学校として、美術大学と工芸学校を統合した「バウハウス」を開校します。二つの芸術学校の統合は、反アカデミーの芸術学校改革でした。

バウハウス設立に際して、グロピウスは『バウハウス宣言書』を著し、反アカデミーの芸術学校改革を宣言しました。グロピウスは工芸と芸術の統合を目指し、当初の教育目標を完璧な造形美術である建築に置きました。「バウハウス」とは、ドイツ語で「建築の家」という意味のグロピウスの造語です。

ヴァイマールの政治的混乱や社会情勢からヴァイマール校舎は閉鎖を余儀なくされますが、1925年にデッサウに移転し、デッサウにおいてバウハウスの黄金期を迎えることとなります。

「バウハウス」は建築界の巨匠が校長を歴任した

グロピウスは1919年から1928年まで初代校長を務め、2代目の校長にはスイス人建築家のハンネス・マイヤー(1889年~1954年)が就任しました。本格的な建築の授業を始め、豊かな未来を実現するための新しい建築と都市計画を指導し、高い評価を得ます。

3代目の校長には、ドイツ人の建築家ミース・ファン・デル・ローエ(1886年~1969年)が就任します。しかし時間は残されておらず、学校は経済的に厳しくなり、工房は縮小されます。1932年にはナチスによる弾圧のためにデッサウ校を離れ、ベルリンに移転しますが、1933年には完全に閉鎖となりました。

グロピウスとローエは、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトとともに近代建築の四大巨匠に数えられます。3人の建築家は、それぞれが独自の理念でバウハウスを築きましたが、反アカデミー改革を行うというグロピウスの目的は引き継がれました。

「カンディンスキー」や「クレー」など、豪華な教授陣が率いた

バウハウスは、マイスターと呼ばれた教授陣も豪華な顔ぶれがそろっていました。最終目標は建築としてスタートしたバウハウスですが、個性的な講師陣による自由な教育によって、総合的な造形芸術の教育機関となってゆきました。

造形の基礎教育で重要な役割を果たしたのがスイスの芸術家ヨハネス・イッテンです。イッテンは、素材の理解や、色彩と造形の原理を教えるプログラムを構築し、それは世界の造形教育における基本指針となりました。

イッテンの自然観や東洋の宗教観に基づく教育がグロピウスの理念と衝突し、1923年にイッテンがバウハウスを去ると、モハリ・ナギとヨーゼフ・アルバースが予備課程を引き継ぎ、イッテンの教育システムを発展させます。

ナギは、プラスチックなどの新しい材料を導入し、当時新しかった写真による表現を取り入れ、また文字のデザインであるタイポグラフィにも力を入れました。ナギはタイポグラフィを使ったバウハウス特有のグラフィックデザインを生み出し、戦後の広告美術に大きな影響を与えました。

近代絵画の巨匠であるワシリー・カンディンスキーとパウル・クレーは、デッサウの教員住宅に住む親しい教師仲間でした。二人はともに造形の基礎理論と色彩論を教えましたが、それぞれの個性があふれる自由で独特なものでした。

さまざまな理念を持ち、独立してそれぞれの分野で活躍する芸術家たちが、造形や芸術の基礎を自由に教えたことが、バウハウスが短い期間でありながら後世に大きな影響を与えた要因となりました。

「バウハウス」閉鎖後はアメリカに理念が引き継がれた

バウハウスが閉鎖されると、グロピウスをはじめとしてマイスターたちはアメリカに亡命し、バウハウスの理念を広めてゆきました。グロピウスはハーバード大学に招へいされ、モダニズム建築をアメリカに広めました。ハーバード大学の美術館には、32,000点におよぶバウハウスの資料が収められています。

モハリ・ナギは、のちにイリノイ工科大学に吸収された「ニュー・バウハウス」を開校しました。ミース・ファン・デル・ローエはイリノイ工科大学の教授に就任し、また1930年代のニューヨークの摩天楼と呼ばれるモダニズム高層建築を生み出しました。

「バウハウス」の代表的な建築・家具・デザインを紹介

バウハウス・デッサウ校舎
(出典:Adobe Stock)

モダニズム建築の代表作『バウハウス・デッサウ校舎』

デッサウのバウハウス校舎はグロピウスの設計によるもので、1925年から26年にかけて建てられました。装飾性を排したコンクリートの躯体とガラスのカーテンウォールがその特徴です。デッサウ校舎はグロピウスの理念の結晶であり、モダニズム建築の代表作です。

バウハウス・デッサウ校は、1996年にバウハウスとその関連遺産群の構成資産のひとつとして世界文化遺産に登録されています。

マルセル・ブロイヤーのパイプ椅子『クラブチェア B3』

 

クラブチェア B3
(出典:Adobe Stock)

バウハウスの家具としてまず思い浮かべられるのが、ブロイヤーのパイプ椅子です。正式名称は『クラブチェア B3』ですが、ワシリー・カンディンスキーの名にちなんで通称ワシリーチェアとして知られています。

装飾がほどこされた椅子が主流だった時代に、スチールパイプとシンプルな布を使用して構造を見せたデザインは、それまでの常識を覆す最先端の家具であり、大量生産にも向いていました。

ブロイヤーは1920年にバウハウスに入学してグロピウスに学び、その後バウハウスで家具工房を率いました。

バウハウスの「グラフィック」と「タイポグラフィ」

バウハウス・デッサウ校舎
(出典:Adobe Stock)

バウハウスのグラフィック・デザインは、従来の絵画や装飾美術とは全く異なる構成がされました。直線的・幾何学的なデザインや三原色を基本とする鮮やかな配色、斬新な写真などによって構成さたバウハウス・スタイルのポスターや広告は、1920年代を中心に欧米に溢れました。

今日のデザインの基礎教育にバウハウスのタイポグラフィも大きな影響を与えています。四角・三角・円を基本として無駄をそぎ落とし、新しいフォントや構成を生み出しました。「BAUHAUS」の文字は、バウハウスで学びマイスターにもなったヘルベルト・バイヤーが規格化を目指してデザインしたもので、芸術と技術の総合を目指したバウハウスの理念を体言しています。

まとめ

バウハウスが教育を行ったのは1919年~1933年の14年間という短い期間でした。バウハウスが閉鎖された頃には、「バウハウス様式」という言葉はドイツにおいて一般的な概念になっており、その後は世界的に有名になりました。

2018年に創立から100年を迎えた今日でも、基本形の四角・三角・円と、基本色の赤・青・黄から生み出されるデザインや、白い立方体の建築、機能主義の家具などに連想されるバウハウス様式は、色あせることなく新鮮さを保っています。

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趣味は読書とヨーロッパ旅行です。ドイツには5年余り滞在経験があります。某大学の人間科学部とデザイン学部を卒業。人生が豊かになる知識の探索を人生の糧にしています。