// 「アクロポリス」とは?意味や場所、パルテノン神殿・アゴラも解説 | TRANS.Biz

「アクロポリス」とは?意味や場所、パルテノン神殿・アゴラも解説

ギリシャを訪れる人は必ず足を運ぶアテネの「アクロポリスの丘」。アクロポリスとは、どのような意味や歴史を持つのでしょうか?

この記事では、「アクロポリス」とは何かについてと、アクロポリスの丘にそびえる「パルテノン神殿」について解説します。あわせてソクラテスが哲学問答を行った「アゴラ」なども紹介しています。

「アクロポリス(Acropolis)」とは?

「アクロポリス」とは”高い丘の上の都市”という意味

アクロポリスとは、「高い丘の上の都市」という意味です。古くは小高い丘の上に諸王の城が建てられていたと伝えられますが、都市国家ポリスが成立してからは、その上に神殿が建てられるようになり、宗教的に重要な意味を持つ丘のことをアクロポリスと呼ぶようになりました。

「アクロポリス」は”ポリス”の中心の場所

アクロポリスは宗教的な祭事や神事を行う神殿のほかに、砦や城壁も作られ、有事の際の避難場としての機能も有する、軍事施設でもありました。アクロポリスは、都市ポリスと市民の、軍事的・精神的な中心をなす場所でした。

「パルテノン神殿」が建つ”アテネのアクロポリス”が最も有名

ギリシャの各地の都市には、中心となる丘に神殿を建てたアクロポリスがありますが、中でも「アテナイ(アテネの古代ギリシャ名)のアクロポリス」は最も有名です。

標高1,500メートルの丘の上にはミュケナイ時代には宮殿があったとされ、紀元前6世紀頃までは王一族の統治の座だったとされます。紀元前5世紀に「パルテノン神殿」が建てられ、2,500年が経過した現在、最盛期の古代ギリシャ世界を象徴する遺跡の一つとなっています。

「パルテノン神殿(Parthenon)」とは何か?

「ドーリア式建築」を代表する古代ギリシャの最も美しい神殿

パルテノン神殿は、紀元前447年に建設が始まり、ペロポネソス戦争の始まる直前の432年頃に、15年の歳月を費やして完成しました。ギリシャの古典建築を代表するパルテノン神殿は、全てが白い大理石でできており、ドーリア式建造物の最も美しい姿とされます。ギリシャ美術の傑作である彫刻装飾も備えています。

ドーリア式(ドリス式)とは、古代ギリシャ建築における建築様式の一つで、柱頭の装飾や柱基を持たないがっしりとした太い柱が特徴です。

古代ギリシャの建築様式には、他にイオニア式とコリント式があり、前者は柱基は基壇の上に設けられ、対になった渦巻きの飾りが柱頭に設けられます。後者はアカンサスの葉がかたどられた装飾的な柱頭と、溝が彫られた細身の柱が特徴です。

神殿のファサードは「黄金矩形」に収まる

神殿のファサード(正面)は、横長の黄金矩形に収まります。柱頭の頂点の位置は、全体の高さの黄金分割点に近接し、8本の柱は黄金分割比に比例しています。

黄金分割とは、紀元前5世紀にギリシャで発見された、最も美しい調和の比率である黄金比で線分を分けることをいいます。古代以来、ギリシャ建築に用いられ、ルネサンス期に見直され、建築のほかにも絵画や彫刻など、まざまな芸術に取り入れられています。

15世紀以降は戦争や他国家の侵入により荒廃した

6世紀には、古代宗教の信仰はキリスト教信仰へと移り、パルテノン神殿はキリスト教の聖堂となり、聖母マリアが祀られました。

1456年には、アテネはオスマン帝国に占領され、マリア聖堂となっていたパルテノン神殿はイスラム教のモスクに改装されました。1687年には、オスマン帝国によって占領されていた神殿は、ヴェネツィア共和国に攻撃されて爆破され、ファサードや内部にをひどい損傷を受け、長い間放置されました。

19世紀に神殿から切り取ってイギリスに持ち出され、現在は大英博物館に展示されるパルテノン神殿の彫刻は、ギリシャ政府が返却を求めています。

20世紀後半から修復・整備が進み、「アクロポリス博物館」が新設された

1975年からはギリシャ政府はアクロポリスやパルテノン神殿の修復に乗り出しました。考古学委員会は遺跡を再調査し、2009年には新しいアクロポリス博物館が新設されました。

博物館は2層の遺跡の上に建ち、地下の遺跡も一部が眺められるようになっています。博物館には、周辺のすべての貴重な古代の遺物が収められています。アクロポリスの丘に建つもう一つの神殿、エレクテイオン神殿の少女の姿の柱像も展示されています。実際の神殿に立っている柱像はレプリカです。

「アクロポリス」の麓に作られる「アゴラ」とは?

「アクロポリス」に作らる「アゴラ」は広場

ポリスの中心であるアクロポリスの麓には、「アゴラ」と呼ばれる広場が作られました。アゴラには、公共の建築物や集会所、市場が設けられ、市民生活の中心の場でした。

古代ギリシャの市民は、アゴラで哲学や政治を議論し、商取引や情報交換を行いました。市民にとって、アクロポリスが精神的な中心であったのに対して、アゴラは政治や経済活動の中心であり、文化の拠点でした。

「アテナイのアゴラ」はヨーロッパの中心だった

アテナイのアゴラは、ソクラテス(紀元前469年~399年)やプラトン(紀元前427年~347年)の時代には、ヨーロッパの文化の中心でした。

プラトンは、アテナイを「英知の殿堂」と呼び、トゥキュディデスの『戦史』においては、ペリクレスがアテナイをギリシャの教育の場と称えました。

ギリシャからローマに中心が移った紀元前1世紀頃からは、アテナイは徐々に衰退しました。現在のアテネのアゴラは発掘整備され、アクロポリスとともにギリシャ観光の中心となっています。

まとめ

ソクラテスは、最もアテネが繁栄した時代に人生の大半をアテネで過ごし、アゴラで哲学談義を行いました。ソクラテスも仰ぎ見たであろう「アクロポリス」の丘にそびえる「パルテノン神殿」は、1687年以前の完全な姿に復元することは難しいとされています。

破壊され、略奪されても輝きを失うことのないパルテノン神殿や、哲学の祖ソクラテスに象徴される高い文化を生んだ古代ギリシャのエネルギーには、はかり知れないものがあったに違いありません。