「パウル・クレー」の生涯と作品とは?「魚」「天使」なども解説

繊細な色彩が日本でも人気の「パウル・クレー」の作品は、謎めいた幾何学的な造形もその特徴です。クレーの作品はどのように生み出されたのでしょうか?

この記事では、独特の作風の礎を作ったクレーの生涯と、その代表作品の特徴について解説します。あわせて美術館や人気のある天使の画集なども紹介しています。

「パウル・クレー」とその生涯とは?

ベルン(スイス)

「パウル・クレー」とはスイス・アルプスの麓”ベルン”ゆかりの画家

パウル・クレー(Paul Klee、1879年~1940年)とは、スイスの首都「ベルン」ゆかりの画家です。音楽教師の父のもとに生まれました。翌年に家族はベルンに移り住み、クレーは思春期までをアルプスの麓の町で過ごしました。

幼少の頃から絵に親しんだクレーは、ベルンから眺めるアルプスの山々や、近隣のトゥーン湖や、山歩きをするなどして目にした自然を描きました。子どもの頃に目にした自然の色彩や造形が、生涯にわたってクレーの芸術の源泉となったのです。

クレーの名言「色彩は私を永遠に捉えた」はチュニジア旅行で生まれた

青年となったクレーはミュンヘンに出て、美術を学んだり、イタリアに旅行したりしました。1906年にピアニスト教師のリリーと結婚し、若いアーティストたちが暮らすミュンヘンのシュヴァービング地区で新生活を始めます。クレーは家事をこなしながらキッチンで絵を描き、妻が外で働いて家計を支えました。

1914年の春には北アフリカのチュニジアに旅に出かけ、鮮やかな色彩に感銘を受けます。この時期から色彩に溢れた絵を描くようになり、日記に有名な言葉「色彩は私を永遠に捉えた」が書かれました。

クレーが生涯、探求し続けた「光」や「色彩」は、スイスやイタリア、チュニジアの自然の風景から触発されたものでした。

「バウハウス」に参加した時代がクレーの黄金期

1918年に第一次世界大戦が終結すると、翌年にドイツ民主国家ヴァイマール共和国が発足します。その年にヴァイマール共和国公立の美術学校「バウハウス」が開校され、1920年にクレーは同校に教授として招かれました。

1932年にナチスによってバウハウスが閉鎖される前年に職を辞するまでのまでの10年余りの間、同僚となったカンディンスキーとともに、クレーは教授として造形の基礎理論と色彩論を教えました。このとき取り組んだ絵画理論について、多くの著作も残しました。

またこの時期には、パリやニューヨークで個展を開いたり、第1回シュルレアリスム展に参加するなど活躍の場を広げ、国際的にも知られる画家となりました。

バウハウス辞任後にデュッセルドルフの美術アカデミーに就任しますが、ナチスの迫害から逃れるために、スイスに亡命を余儀なくされました。

バウハウス後は、病気と闘いながら絵を描き続け「晩年様式」が生まれた

1933年、ベルンに亡命したクレーは質素なアパートに居を定めてアトリエを置きますが、故郷でも危険人物扱いをされ、預金口座も凍結されるなど生活は困窮しました。さらに悪いことに次々と病に襲われ、原因不明の皮膚硬化症までをも発症します。そのような状況の中でも絵筆を取り、1940年に息を引き取るまで、大量の絵を描き続けました。

1936年以降に描かれた作品は、それまでの画風とは異なる、黒く太い線と明確な色彩や、謎かけのような物語性が生まれ、それらの絵は「晩年様式」と呼ばれます。

最晩年に描いた「天使」の連作がポスターやポストカードとして人気

最晩年の、1939年と1940年には、鉛筆の線描だけで「天使」の連作を描きました。重い病気と闘いながら、またナチスからの迫害という厳しい状況の中で、『忘れっぽい天使』『疑心天使』『泣いている天使』などのタイトルがつけられた天使の絵が次々と描かれました。

どこか愛嬌があり、温かみが感じれれる「天使」は、クレーの作品の中でも人気が高く、ポスターやポストカードとして美術館などで販売されています。

「パウル・クレー」の代表作とその特徴とは?

音と色彩の関係を分析し「音楽」をカンヴァスに描いた『ポリフォニー』

『ポリフォニー』1932年 バーゼル市立美術館(スイス)
(出典:Wikimedia Commons User:Rotatebot)

クレーは幼少期からバイオリンを弾いており、プロ級の腕前でした。クレーは楽曲の構造を幾何学的な構造で造形化したり、同じメロディーが繰り返し現れるフーガの音楽形式を、色と形の抽象図形で描いたりするなど、「音楽」を描くことを試みました。

クレーは、音の響きそのものを視覚化した「ポリフォニー絵画」と自らが呼ぶ絵画を連作しました。ポリフォニーとは、複数の声部が重なって同時に響く多声音楽のことです。四角に区切られた色彩と、その上に置かれたドットで音を視覚化しました。

発光しているような色彩の代表作『金色の魚』

『金色の魚』1925年 ハンブルク美術館(ドイツ)
(出典:Wikimedia Commons User:Prosfilaes)

『金色の魚』は、クレーの活動の中の黄金期に描かれた傑作の一つです。暗い藍色の海に沈む金色の魚は、周囲に描かれた水生植物や赤い魚と響きあい、まるで発光しているように見えます。魚はクレーの重要なモチーフの一つです。

『金色の魚』は、一度はナチスに没収され、1937年の「頽廃芸術展」にさらされましたが、その後オークションにかけられたことで難を逃れました。

単純な幾何学で構成された『セネキオ』

パウル・クレー 『セネキオ』 1922年 バーゼル市立美術館(スイス)
(出典:Wikimedia Commons User:Nolan~commonswiki)

クレーの絵画理論では、モチーフを観察してそこから徹底して無駄なものを省き、単純な円や四角、シンプルな線に還元する作業が行われます。クレーの自画像という説もある本作は、複雑な人間の表情を徹底的にシンプルな造形で表現しています。

『セネキオ』とは花の名前で、本作は生命の循環を擬人化した絵だとも言われています。

まとめと「美術館」「画集」の紹介

クレーの透明感溢れる唯一無二の色使いと独自の抽象表現は、スイス・アルプスの美しい自然と、子供の頃から親しんだ音楽が礎にありました。バウハウスの時代に黄金期を迎え、晩年はナチスの迫害と難病により困難な状況に陥りましたが、60歳で没する直前まで絵を描き続けました。

スイスの首都ベルンの郊外には、イタリアを代表する建築家レンゾ・ピアノが設計した、弧を描くような斬新な形状の「パウル・クレー・センター」が、大規模でありながら丘陵地に溶け込むように建っています。クレーが生涯に制作した9,500点もの作品のうち、約4,000点が収蔵されています。

パウル・クレー・センター

 

クレーの作品を収蔵する日本の美術館はたくさんあります。愛知県美術館では、『蛾の踊り』や、晩年様式の『回心した女の堕落』などを収蔵しています。

愛知県美術館

 

クレーの絵は詩のようだと評する谷川俊太郎が、クレーの絵に詩をつけた詩画集が発売されています。