ルネサンスを代表する「神のごとき」芸術家「ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti 1475年~1564年)」。その代表作品は彫刻の『ピエタ』『ダビデ』、フレスコ画の『最後の審判』『システィーナ礼拝堂天井画』など、世界に知られる傑作ばかりです。
この記事では、ミケランジェロの生涯にそいながら、特に有名な代表作品をピックアップして紹介します。
「ミケランジェロ・ブオナローティ」とは?
「ミケランジェロ」とはイタリア・ルネサンス期を代表する「神のごとき」芸術家
ミケランジェロとは、イタリア・ルネサンス期を代表する彫刻家であり、建築家、画家です。彫刻・建築・絵画と多岐にわたる分野の第一線で活躍し、のちの芸術家に大きな影響を与えました。
芸術家列伝を記したジョルジョ・ヴァザーリに「神のごとき」と称賛されるなど、存命中から優れた才能で知られ、現在においても西洋美術史上における最高の芸術家の一人とされています。
ルネサンスとは、「再生」を意味する言葉で、14世紀のイタリア・フィレンツェに興った美術運動です。古代ギリシャやローマに芸術の原点を求め、古代の人々の自然や人間の見方を再生しようとしました。ミケランジェロはまた、ルネサンス精神を代表する芸術家の一人です。
ミケランジェロは自身の本業を「彫刻家」であると自任した
ミケランジェロは、人体表現に強い関心を寄せ、自身の本業は彫刻家であるとの信念を持っていました。ミケランジェロは肉体を魂の牢獄と考え、石の塊から人間を削り出すことによって、物質から魂を開放しようとしました。
ミケランジェロは「メディチ家」「ローマ教皇」とのつながりが深かった
ミケランジェロの父はフィレンツェの役人でしたが、ミケランジェロ10代のとき、父の仕事を継がずに反対を押し切り、彫刻の工房に弟子入りしてしまいました。若き日のミケランジェロを見い出したのがメディチ家の当主、ロレンツォ・デ・メディチ(1449年~1492年)でした。
ミケランジェロの活躍したルネサンス時代のフィレンツェ共和国を実質的に統治し、パトロンとして芸術家たちを支援したのがメディチ家でした。ロレンツォの死後もミケランジェロはメディチ家とのつながりが続き、メディチ家礼拝堂などを設計しました。
ルネサンスの中心がローマに移ると、ミケランジェロはローマ教皇のもとでシスティーナ礼拝堂の壁画やサン・ピエトロ大聖堂の設計などを行い、晩年まで仕えました。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」とは反目しながら同時期に活躍した
ミケランジェロとともに、ルネサンスおよび西洋美術を代表する芸術家にレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)がいます。二人は同じ時期にイタリアで活躍しました。しかしヴァザーリが記した二人の言い争いの逸話などから、両者の間には深い確執があったことがわかっています。
その確執の背景には、ミケランジェロが絵画を低いものとみなし、レオナルドは彫刻を否定的に考えていたという、お互いの芸術分野における自負の対立にあるともされています。この「彫刻」と「絵画」、あるいは芸術諸分野の比較論争のことを「パラゴーネ(比較論争)」といいます。
「ミケランジェロ」の代表作品とは?
ミケランジェロのデビュー作『ピエタ』(1498年~1499年)
『サン・ピエトロのピエタ』 サン・ピエトロ大聖堂(フィレンツェ)
(出典:Adobe Stock)
ミケランジェロの名声を最初に高めたのは、20代半ばに制作した『サン・ピエトロのピエタ』です。サン・ピエトロ大聖堂に収蔵されており、古典美と写実的な技巧はルネサンスの理想としての完成度に到達しているとされます。しかし、このピエタが実質的なミケランジェロのデビュー作だということが、ミケランジェロの才能の高さを物語っています。
マリアが肩からさげる帯には、ミケランジェロの作品における唯一の署名が彫られています。マリアが史実よりも若すぎると批判がされましたが、聖母の処女性を強調したと反論しました。
フィレンツェのシンボルであり代表作の『ダビデ』(1501年~1504年)
『ダヴィデ』 アカデミア美術館(フィレンツェ)
(出典:Adobe Stock)
巨人ゴリアテを倒すダヴィデの像は、フィレンツェ共和国政府からの注文で作成され、フィレンツェ市庁舎が置かれていたヴェッキオ宮殿の入り口前に設置されました。高さ5メートルあまりの巨像で、敵に向けた強い怒りの表情は、ミケランジェロ作品の特徴である「凄まじさ」を表しています。
『ダヴィデ』は共和国のシンボルとなり、ミケランジェロの彫刻の代表作となりました。20代で制作した『ピエタ』と『ダヴィデ』の成功を皮切りに、ミケランジェロには次々に依頼を受け、特に教皇たちからさまざまな依頼を受けました。
現在、ヴェッキオ宮殿の前に設置されている『ダヴィデ』はレプリカで、作品はフィレンツェのアカデミア美術館に収蔵されています。
史上最大のフレスコ画『システィーナ礼拝堂天井画』1508年~1512年
『システィーナ礼拝堂天井画』(ヴァチカン)
(出典:Adobe Stock)
教皇ユリウス2世から命じられたシスティーナ礼拝堂の天井画は、天井の疑似構造で分割した枠内に、旧約聖書の諸場面がフレスコによって描かれています。1000平方メートル近くの面積におよそ300の人体が描かれており、史上最大の絵画の一つです。
当初は助手がいましたが、ミケランジェロはその技量に満足できず、一人で描きました。しかし、自身を画家ではなく彫刻家だと自負していたため、当初は命令に抵抗し、また引き受けた後も苦悩しながら作業を進めました。
天井画の中でも特に有名な部分が『アダムの創造』です。神がアダムに魂を吹き込む瞬間を、人差し指で表しています。
ミケランジェロ絵画の代表作『最後の審判』(1535年~1541年)
『最後の審判』 システィーナ礼拝堂(ヴァチカン)
(出典:Wikimedia Commons User:ANGELUS)
システィーナ礼拝堂天井画の完成から20年後に、教皇パウルス3世によって、礼拝堂の祭壇側の壁に『最後の審判』を描くことを命令されました。高さ17メートルもある大作で、6年がかりでフレスコで描かれました。
審判の日を迎えて復活した人々は、中央のキリストによって天国と地獄に振り分けられています。400体の裸体が描かれましたが、公開された当初から批判が続き、後年に別の画家によって人体に腰布が加筆されました。
建築の代表作『サン・ピエトロ大聖堂クーポラ』1593年
『サン・ピエトロ大聖堂』(ヴァチカン)
(出典:Adobe Stock)
ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂は、ブラマンテの設計で始まり、跡を継いだラファエロが急死したことにより、71歳になっていたミケランジェロが建築主任に任命され、積年の諸問題を解決してゆきました。
さらに80歳のときにミケランジェロが設計したサン・ピエトロ大聖堂のクーポラ(大円蓋)は、その後の聖堂建築の手本となり、またミケランジェロ晩年の代表作です。クーポラは彼の死後、1593年に完成されました。
まとめ
ミケランジェロは、彫刻、絵画、建築のいずれの分野においても、圧倒的に高い完成度の作品を残しました。しかし本人は自身を彫刻家であると自任し、絵画には消極的であったということは意外な事実かもしれません。ミケランジェロは才能があるあまりに、メディチ家と教皇に請われ続け、休むことのない人生を送りました。
ミケランジェロは、当時としては珍しい88歳の長寿でした。遺体はローマから故郷のフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ教会に埋葬されました。メディチ家出身のコジモ1世の命により、教会には壮麗な「ミケランジェロの墓碑」が作られました。