「マグダラのマリア」とは?福音書の記述や伝説を紹介!絵画も

聖母マリアと並んで「マグダラのマリア」は、キリスト教の信仰の対象であり、西欧の芸術のモチーフとしても人気があります。しかしそのイメージは多様で、時代によっても変遷しています。

この記事では、マグダラのマリアについて、そのイメージがつくられた背景と、伝説やパワースポットを紹介します。さらに彫刻や絵画も紹介しています。

「マグダラのマリア」とは?

マグダラのマリアとは『福音書』に登場し、イエスの生涯に立ち会う女性

「マグダラのマリア」とは、新約聖書の中のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの『福音書』に登場し、イエスに従った女性です。イエスとともに福音の旅をし、イエスの磔刑と埋葬、復活に立ち会います。

「マグダラのマリア」は、”罪深き聖女”としてのイメージが一般的です。その罪とは、イエスと出会う前に娼婦をしていたとする説です。ところがマリアが娼婦だとする記述はどこにもないのです。

『ルカ福音書』では、”七つの悪霊を追い出していただいたマグダラと呼ばれるマリア”との記載がありますが、定説である「回心した娼婦」であるとの記述はどこにもありません。

この定説は、キリスト教が発展する中ののちの時代に付与されることになるため、初期のキリスト教美術では、イエスの磔刑や復活の場面のみにマグダラのマリアが登場します。

『マリアによる福音書』などの外典では高い能力を持つ伝道者として描かれる

新約聖書におさめられた四つの福音書とは異なる姿のマグダラのマリアが、外典である『マリアによる福音書』などでは描かれます。神託を告げる預言者としての能力を持ち、使徒たちと対等な立場で、あるいはそれ以上の立場となって伝道者としての資格が与えられています。

「罪深い女」である別のマリアとマグダラのマリアがのちに合体する

『ルカ福音書』『ヨハネ福音書』には、パリサイ人の家で食事をしているイエスのもとに「罪深い女」がやってきて、泣きながらイエスの足に香油を塗り、髪の毛でぬぐった、という記述があります。

この「罪深い女」は”ベタニアの女”と記されているのですが、「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラと呼ばれるマリア」の記述と”罪深い女”がのちに結びつき、両者が合体してしまいます。

そのため、マグダラのマリアは長い髪で描かれることが多く、また「罪深い女=娼婦」として描かれることになったのです。罪深い女が娼婦に置き換えられたことは、古いイメージの類型からによるもので、根拠となる記載があったわけではありません。マグダラのマリアにとってはいわれのない汚名であるといえます。

しかし、マグダラのマリア=罪深い女=娼婦という解釈をとる研究者も多くいます。

なお、追い払われた「七つの悪霊」とは、キリスト教における「七つの大罪」であるところの「高慢・貪欲・嫉妬・憤怒・邪淫・貪食・怠惰」のことを指し、人間であれば誰もが持つ罪であるといえます。

「マグダラのマリア」にまつわる伝説とは?

サント=マリー=ド=ラ=メール

マグダラのマリアにまつわる伝説を紹介します。

「マグダラのマリアの子孫」がフランスにいるという伝説がある

四世紀に生まれた伝説では、イエスが磔刑に処せられたあと、迫害から逃れるため、マグダラのマリアは他の二人のマリア(マリア・ヤコベ、マリア・サロメ)と妹、侍女とともに小舟に乗り、フランス・マルセイユ地方のサント=マリー=ド=ラ=メールに上陸したとされます。

その伝説と、マグダラのマリアがイエスと結婚していたという別の伝説が結びついて、フランスのゆかりの地には、二人の子孫が今も暮らしているという新たな伝説も生まれています。

「マグダラのマリアの洞窟」がパワースポットとして人気

マグダラのマリアがサント=マリー=ド=ラ=メールに上陸したとの伝説では、その後マリアはサント=ボーム山塊へ移り、この山の中にある洞窟で生涯を送ったとされています。サント=ボームの洞窟は、マグダラのマリアの洞窟としてパワースポットとなり、巡礼者や観光客を集めています。

フランスで「マドレーヌ」と名のつく教会はマグダラのマリアに捧げられている

マグダラのマリアとは、マグダラ出身のマリアという意味の日本の呼び名ですが、フランス語ではマグダラのマリアは「マドレーヌ」と呼ばれます。

マドレーヌと名がつく聖堂や寺院はマグダラのマリアに捧げられたものです。中でも、フランスのヴェズレーにあるサント=マドレーヌ大聖堂には、マリアの伝説に従って聖遺物を祭ったことで巡礼者が押し寄せ、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつとなりました。

なお、お菓子のマドレーヌの名の由来は、諸説ありますが、マグダラのマリアの名が由来とする説が有力のようです。またマドレーヌがホタテの形をしているのは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼のシンボルであるホタテ貝をかたどって、巡礼者のためのお菓子として作られたとする説などがあります。

「マグダラのマリアの墓」はないが”聖遺物”が各地に祭られる

マグダラのマリアは、先に説明したようにサント=ボームの洞窟で息を引き取ったとされ、その地に墓が作られたともされますが、遺骸とされる聖遺物はいくつかの教会に分散されて祭られており、信仰の対象となっている聖地としての墓はありません。

マリアの頭蓋骨とされるものは、サント=ボーム山塊の麓にあるサン・マキシマム教会に安置されており、ヴェズレーのサント=マドレーヌ大聖堂には、遺骨の一部が祭られています。

「マグダラのマリア」の彫刻・絵画とは?

マグダラのマリアが表現された彫刻と絵画は無数にありますが、その中でも象徴的なものを紹介します。

ドナテッロの『悔悟するマグダラのマリア』(1250年代半ば)

『悔悟するマグダラのマリア』サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ドゥオーモ付属美術館
(出典:Wikimedia Commons User:Sailko)

ドナテッロの『マグダラのマリア』で表現された、髪を無造作に伸ばし、ぼろぼろの衣服をまとった修行僧のようなイメージは、14世紀以降に流行しました。前提としてここでのマリアは、娼婦であったという罪を背負ったマリアです。このすさまじいまでの姿は、イエスの死後、隠遁して罪を償う修行の日々を過ごしたことが表されています。

ジョットの『キリスト磔刑』(1320年~1325年頃)

『キリスト磔刑』 ストラスブール・ボザール美術館
(出典:Wikimedia Commons User:Rama)

福音書におけるマグダラのマリアは、キリストの磔刑に静かに立ち会うのみでしたが、13世紀頃には、マリアは十字架のもとにすがり、激しい感情を見せるようになります。この姿はキリスト教徒の模範とされ、信仰者は自分の姿をマリアに投影して感情を高めました。

フラ・アンジェリコの『我に触れるな』(1441年~1443年頃)

『我に触れるな』サン・マルコ修道院
(出典:Wikimedia Commons User:Nicke L)

『我に触れるな』は、『ヨハネ福音書』に描かれた一節からとられており、マグダラのマリアの前に墓から復活したイエスがあらわれる場面です。「わたしに触ってはいけない。わたしは、まだ父のもとにのぼっていないのだから」と、すがろうとするマリアをイエスが諭しています。

イエスが復活後にマグダラのマリアの前に姿を現す場面は繰り返し描かれましたが、フラ・アンジェリコが描いた二人は互いに穏やかに向き合い、両者の深い結びつきが表されています。

まとめ

「マグダラのマリア」は、多くのキリスト教美術のテーマとなって描かれてきましたが、罪を悔やみ改悛する女性像や、キリストの受難に嘆き悲しむ女性像、さらに理想的な聖女の姿など、そのイメージは多様です。

聖母マリアが手の届かない天上の存在だったことに比べて、マグダラのマリアは、現世に生きる人々の苦悩と希望を投影しやすい存在であったといえます。そのことからマグダラのマリアへの信仰が生まれました。

文学においては、トルストイの『アンナ・カレーニナ』や、フローベールの『ボヴァリー婦人』、ドストエフスキー『罪と罰』のソーニャなどは、マグダラのマリアが原型となっているとされます。とくにドストエフスキーは、マグダラのマリアに強い関心を持ち、多くの作品における女性登場人物のモデルとしています。