ルネサンスの芸術家「レオナルド・ダ・ヴィンチ(イタリア語・英語: Leonardo da Vinci)」は、万能の天才と称えられ、謎や伝説の多い芸術家としても知られます。レオナルドはどのような生涯を送り、どのような作品を生み出したのでしょうか?この記事では、レオナルドとその生涯、名言や代表的な絵画作品について解説します。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」とは?
ルネサンスを代表する芸術家で「万能の天才」と呼ばれる
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)とは、イタリア・ルネサンスを代表する芸術家です。
絵画においては人間復興を目指したルネサンスを体現するごとく、徹底したリアリズムで人物描写を行い、さらに彫刻家・建築家としても活躍しました。さらに、解剖学、機械発明などにおいても多くの手稿を残し、「万能の天才」と呼ばれます。
加えて、歴史学者パオロ・ジョヴィオらの記録によれば、レオナルドは「並外れた美しい容姿」をした、華があって優美な人物だったとされ、巻き髪を胸元まで伸ばし、綺麗に整えていたといいます。
名前の「ヴィンチ」とは”ヴィンチ村”のこと
レオナルド・ダ・ヴィンチとは、「ヴィンチ村のレオナルド」という意味です。出生名は「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」(ヴィンチ村のセルの息子のレオナルドという意味)だったとされますが、早い段階で「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と名乗るようになりました。
父親は先祖代々公証人の仕事をする裕福な家系でした。父の正式な名前は「セル・ピエロ・ディ・アントニオ・ディ・セル・ピエロ・ディ・セル・グイド」(グイドの息子のピエロ、さらにその息子のアントニオの息子のピエロという意味)という名前です。
当時の慣習では、自分の祖先や父親の名前を「~の息子」という意味の「ディ」という語でつなげた正式な名前のほかに、職業などからつけたニックネームを持つのが一般的でした。レオナルドの名前はそのような慣習から外れた、珍しい名前を名乗っていたことになります。
レオナルドは私生児として生まれて複雑な幼少期を送ったため、自分の名前から父親や先祖を外したのかもしれません。
「ヴェロッキオ」の弟子からスタート、20代後半にミラノへ
レオナルドの芸術家としての人生は、フィレンツェに出て、ヴェロッキオ(1435年頃~1488年)に弟子入りすることから始まりました。ヴェロッキオは彫刻、絵画、建築など多彩な才能を持ち、大きな工房を構えていました。レオナルドは、ヴェロッキオの多彩さと、古典美を描く革新的な手法や人体の解剖への興味を受け継ぎました。
20代の後半に独立したレオナルドは、ミラノに移ってミラノ公に仕えます。この時代には多くの教会を設計し、代表作となる『最後の晩餐』の壁画も手掛けます。
50代で軍事技術者に、晩年はフランスで過ごした
50代には、軍人チェーザレ・ボルジアに、芸術家としてではなく軍事技術者として仕えます。最晩年はフランス王フランソワ1世の国王づきの芸術家・技師として迎えられ、アンボワーズ城に隣接するクロ・リュセ城に住み、そこで息を引き取りました。
レオナルドの墓はアンボワーズ城内の教会にありますが、本当に埋葬されているのかは実証されていません。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の代表作品とは?
それまでの形式を覆した初期の傑作『受胎告知』(1475年~1485年)
『受胎告知』ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
(出典:Wikimedia Commons User:Slick-o-bot)
『受胎告知』は、古くから西洋絵画で繰り返し描かれた、大天使ガブリエルが聖母マリアにイエスの受胎を告げる人気のテーマです。レオナルド初期の傑作とされる『受胎告知』は、それまでの形式を覆し、風景が大きな割合を占め、書き込まれた花や人物が徹底したリアリズムで描かれています。
特にガブリエルが手にしている、純潔の象徴である百合の花は現実の花のように丁寧に描かれ、植物の一つ一つが装飾としてではなく、精密な植物画のように描かれています。このような表現もそれまではなかったものでした。
死者の木である4本の杉の木は、イエスの運命を示しています。
最も有名なドローイング『ウィトルウィウス的人体図』(1487年頃)
『ウィトルウィウス的人体図』アカデミア美術館(ヴェネツィア)
(出典:Adobe Stock)
最も有名なレオナルドのドローイングが『ウィトルウィウス的人体図』です。手稿のメモには、「ウィトルウィウスが提唱した理論を表現した」と書かれており、古代ローマ時代の建築家ウィトルウィウスが書いた『建築論』の記述をもとに書かれました。
『建築論』の中の、人体の比率と宇宙の比率との調和が語られた部分である、人間が四肢を広げると円に接し、両足をつけて立つと正方形に接するとする記述を表しました。
レオナルドは、人体の尺度は万物の基準となると考え、人体の計測を綿密におこない、それは解剖学につながりました。
斬新な構図と人物表現が謎を生む『最後の晩餐』(1495年~1498年)
『最後の晩餐』サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ)
(出典:Wikimedia Commons User:Hello world)
『最後の晩餐』は、人物の配置と動きなどの表現が、それまでの絵画に比べて斬新でした。通常、裏切り者のユダは、それとわかるように一人だけ別に描かれることが多かったところを、レオナルドは他の弟子と同列に置きました。
さらに、裏切り者がいると告げたイエスの言葉から、12人の使徒に動揺が広がる様子が、それぞれの人物の体の動きや表情によって、臨場感を持って表現されています。
男性版モナ・リザ『サルバトール・ムンディ』(1500年頃)
『サルバトール・ムンディ』ルーヴル・アブダビ(アブダビ)
(出典:Wikimedia Commons User:Coldcreation)
『サルバトール・ムンディ』(救世主の意)は、1500年頃に描かれたとみられ、18世紀末から行方不明になっていました。2005年に美術商が買い取ったときには状態が悪く、修復したところレオナルドの真作と判断されました。2017年にかけられたクリスティーズのオークションでは、500億円余りで落札され、美術品における過去最高の落札額となりました。
『サルバトール・ムンディ』は謎めいた表情から「男性版モナ・リザ」とも呼ばれています。『モナ・リザ』やレオナルドの他の作品と同様に、手の表情が印象的です。
レオナルド最大の謎を秘める『モナ・リザ』(1503年~1506年頃から制作)
『モナ・リザ』(1503年~1506年頃から制作) ルーヴル美術館(パリ)
(出典:Adobe Stock)
レオナルド最大の謎とされ、また世界で最も有名な絵画が『モナ・リザ』です。レオナルドの伝記や、当時に絵を見た人の記録などの研究から、モデルとされる候補者は10人ほどいますが、決着はみていません。
モデルの謎に加えて、この『モナ・リザ』の絵は、レオナルドが生涯において手放さず、没する直前まで手を入れ続けたことも憶測を呼んでいます。スフマート技法で描かれた威厳のある謎めいた微笑みが、『モナ・リザ』の謎を深めています。
指し示す指の謎『洗礼者ヨハネ』(1513年~1516年頃)
『洗礼者ヨハネ』ルーヴル美術館(パリ)
(出典:Wikimedia Commons User:Dcoetzee)
レオナルドが晩年に描いた『洗礼者ヨハネ』は、何かを訴えるような不思議な表情と、人差し指を上に向けた手が、謎をかもしだしています。ヨハネのモデルは、弟子のサライだと言われています。
レオナルドがよく用いた、指で何かを指す仕草と、男性とも女性ともつかない人物像、そしてその謎めいた表情がよく表れた作品です。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の芸術の特長とは?
レオナルドの手稿
(出典:Adobe Stock)
「スフマート技法」や「空気遠近法」を開発、”リアリズム”を追求した
フレンツェから40キロほど離れた自然豊かなヴィンチ村に生まれたレオナルドは、幼少期から自然観察に没頭しました。
のちにレオナルドは、自然界には輪郭がないことから、輪郭を描かずに絵を描く「スフマート(ぼかし)技法」を発明します。ほかにも「遠くのものは青みがかって見える」という発見から、遠近を色彩のグラデーションによって表す「空気遠近法」を開発します。これらの技法は、子供の頃から親しんだ自然の観察から生まれました。
レオナルドが追求した遠近法や、自然を写し取るリアリズムの手法は、レオナルド以前にはみられない独創的なものでした。
科学者や解剖学者としても通用する「手稿」を残した
レオナルドは「手稿」と呼ばれる膨大なメモを残しており、その数は13000枚にのぼります。手稿はさまざまま考察や覚書き、スケッチ、機械や施設の設計図、さらに30年にわたってとりつかれたという、人体解剖についての詳細な記録も含まれます。
とくに、人間の筋肉や臓器、頭蓋骨などを精密に描写した人体解剖図や、鳥の観察から発明した空飛ぶ船(ヘリコプター)のスケッチなどが有名です。
レオナルドは生涯のうちに何度か、その手稿を体系的にまとめようと試みましたが、ついに完成することはできなかったということです。
「手稿」の鏡文字が暗号というのは都市伝説
レオナルドは「手稿」を残す際に、文字を「鏡文字」で書きました。「鏡文字」とは、文字を左右に反転させて、進行方向も逆にして文字を綴ってゆく書き方のことです。この鏡文字は、レオナルドが自分の考えを他人に読ませないために暗号のように使っていた、などと解釈されることがありましたが、現在はその説は否定されています。
「鏡文字」については、一種の学習障害であったとの説があります。レオナルドは計算や、外国語を覚えることが苦手たったこと、あれこれと同時に手を広げてしまい、最後まで完成させることができなかったことなどがわかっており、これらは学習障害にみられる症状と一致します。
アインシュタインも暗記ができなかったことがわかっていますが、レオナルドの天才肌や一般的でない側面は、脳の機能にも要因があったのかもしれません。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の名言とは?
レオナルドの「手稿」に名言が残っている
レオナルドの手稿は、のちに『絵画論』『人生論』などにまとめられて出版されました。そのため、レオナルドの名言が多く伝わっています。『人生論』からいくつかを紹介します。
「幸福」が来たら、ためらわずに前髪をつかめ、うしろは禿げているから。
穴を掘るもののうえに、穴は崩れる。
必要であればあるほど拒まれるものがある。それは忠告だ。
脅迫とは、ひとえに脅えた者の武器にすぎない。
まとめ
レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画や建築に優れた功績を残し、あわせて斬新な構想による機械の発明などを、おびただしい数の手稿に残しました。その才能の多彩さは「万能の天才」と評され、またレオナルドの姿形も大変に美しかったといわれます。
レオナルドの生涯や作品には謎めいたところが多く、さまざまな謎解きがされています。ダン・ブラウンの小説『ダ・ヴィンチ・コード』では、『最後の晩餐』に描かれたヨハネはマグダラのマリアであり、イエスと恋愛関係にあったとして、その暗号がこの絵に隠されているとする構想が示されました。
また、映画の『ダ・ヴィンチ・コード』では、ルーヴル美術館館長ジャック・ソニエールが、『ウィトルウィウス的人体図』を模した姿の遺体で発見されるという場面もありました。
近年、表に出てきた『サルバトール・ムンディ』も、新たな伝説を生んでゆきそうです。