「エゴンシーレ」の生涯と作品とは?自画像やクリムトとの関係も

「エゴン・シーレ」は世紀末のウィーンに生まれ、28歳で夭折しながらも個性を樹立させた奇才の画家です。この記事では、クリムトやヒトラーとの関わりも含めた、シーレの生涯を紹介します。あわせて、自画像の代表作品や、シーレの伝記をもとにした映画も紹介します。

「エゴン・シーレ」とは?

Egon Schiele 1918年
(出典:Wikimedia Commons)

「エゴン・シーレ」とは独自の世界を確立した奇才の画家

エゴン・シーレ(Egon Schiele、1890年~1918年)とは、世紀末ウィーンに生まれた奇才の画家です。自画像や裸婦を象徴的で寓話的な作風で描きました。シーレの芸術はとげとげしく、鋭さを伴う孤独を感じさせるもので、どの流派にも分類できない、独自の世界を切り開きました。

「クリムト」と「シーレ」の作風は対照的な”陽”と”陰”

シーレは世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト(1862年~1918年)の弟子としてクリムトの影響のもとにスタートし、その克服の過程で独自の世界を切り開きました。

シーレが17歳のとき、45歳のクリムトに批評と助言を求めて知り合ったとされます。クリムトとシーレは師弟関係となり、クリムトはシーレの才能を認め、財政面や発表の場を作るなど積極的に支援しました。

クリムトとシーレの作風はまったく異なります。クリムトの華やかな色彩や、幸福にあふれた情緒感はシーレにはなく、人物は見た人が衝撃を感じるほどにゆがみ、苦痛や腐敗、死が前面に打ち出されています。

シーレは若くして父親を亡くしており、クリムトに複雑で精神的な父親像を求めていたとも言われます。シーレはスペイン風邪によって28歳の若さで夭折し、クリムトと同じ年に亡くなりました。

「ヒトラー」が受験に失敗した”ウィーン美術アカデミー”に入学した

シーレは、クリムトも学んだウィーン工芸学校を卒業すると、1606年、16歳のときにウィーン美術アカデミーに入学します。しかし同アカデミーの閉塞的で旧態依然としたアカデミズムになじめず問題を起こし、1909年には自主退学をさせられます。それ以降、シーレはアカデミズムに背を向け、孤高で個性的な表現者としての道を歩みました。

なお、ウィーン美術アカデミーは、アドルフ・ヒトラー (1889年~1945年)が受験に失敗した学校としても知られています。ヒトラーが受験したのはシーレが入学した翌年でした。自分を認めなかったアカデミーにシーレらが迎えられたことについて、ヒトラーは後年まで恨みを抱いていたといいます。

ナチス時代に行われた、「退廃芸術」弾圧の際には、シーレの作品も各地から没収されました。

ゴッホに感銘を受け、シーレも描いた「ひまわり」の絵

シーレが生まれた年は、ゴッホ(1853年~1890年)が亡くなった年でした。シーレはゴッホの絵の実物を見てその躍動感に感銘を受け、大きな影響を受けました。シーレはゴッホを敬愛しており、没年に生まれたことに運命を感じたとも述べています。特にゴッホの「ひまわり」を称賛し、自身も「ひまわり」を連作しています。

シーレの「ひまわり」は、クリムトとの陽と陰の対照のように、ゴッホの陽に対して、あくまでも「陰」的に描かれています。葉は茶色く枯れ、花にも生命力がなく、秋の花のようです。

「攻撃的なまでの陰鬱さ」と「奇妙な美しさ」を感じるシーレの作風

シーレが画家として活動した期間は10年足らずでしたが、2500点もの作品を残しました。裸婦や自画像では、伝統的な構図や色彩から逸脱した、危うく挑戦的で反アカデミックな作風が特徴的です。

卓越した技術と表現力による風景画も多く描かれました。人物画と同様に、鋭い情感が漂い、ハプスブルグ家の時代の終焉を象徴しているとも評されます。

シーレは「心の奥底でならば、夏真っ盛りの時に秋の木をイメージすることも可能です。この憂鬱さを、ぼくは描いてみたいのです」と手紙に記しています。

シーレのすべての絵からは、「攻撃的なまでの陰鬱さ」が感じられます。それとともに、陰鬱でありながらも「奇妙な美しさ」が光を与えているのが奇才シーレの作風だといえます。

エゴン・シーレの代表作品とは?

シーレの自画像の中で代表的な作品と、自身を寓意的に描いた代表作『死と乙女』を紹介します。

『ほおずきの実のある自画像』(1912年)

『ほおずきの実のある自画像』レオポルド美術館(ウィーン)
(出典:Wikimedia Commons User:DcoetzeeBot)

シーレは自画像を多く描いた画家でした。描かれた画家は挑戦的な面持ちで、何かを訴えかけるような目や手の表情が印象的です。

22歳の時に描かれた『ほおずきの実のある自画像』は、斜に構えて自身を点検するように自分を見つめています。多様な価値観が交錯し、戦争に向かう不穏な時代において、シーレは自画像を描くことで自己のアイデンティティを確立させようとしていたのかもしれません。

『死と乙女』(1915年)

『死と乙女』国立オーストリア美術館(ウィーン)
(出典:Wikimedia Commons)

陰鬱な背景の中にシーレ自身と、恋人ヴァリが描かれ、二人の別離を表現しています。二人の間に愛は感じられず、うつろなまなざしが関係性を示唆しているようです。

エゴン・シーレの「映画」とは?

エゴン・シーレの伝記をもとにした映画が2つ制作されていますので紹介します。

『エゴン・シーレ 愛欲と陶酔の日々』1980年公開

1912年、シーレ22歳のときに起きた、ノイレングバッハ事件から始まり、スペイン風邪によって28歳の若さで生涯を閉じるまでを描いています。夭折した異才の画家の内面を丁寧に描いた作品です。

ノイレングバッハ事件とは、恋人と住んでいた家に家出少女を保護したところ、誘拐と勘違いした少女の父によって通報され、逮捕、拘留された事件です。誘拐は身に覚えのないものでしたが、捜索の際に発見されたデッサンがわいせつ物とされ、シーレは3週間の禁固刑に服しました。

『エゴン・シーレ 死と乙女』2016年公開

シーレの半生を、おもに妹ゲルティと、モデルで恋人のヴァリとの関係をテーマとして描いた作品です。第一次世界大戦前後のウィーンの空気や画家の置かれた状況が伝わる映画です。

まとめ

エゴン・シーレは世紀末のウィーンに生まれ、第一次世界大戦終結とともに、その年大流行したスペイン風邪によって28歳の若さで夭折しました。絵を描いた期間は10年程度でしたが、独自の画風を確立し、エネルギーの溢れる多くの絵を残しました。

シーレが生きた時代のウィーンでは、ジークムント・フロイト(1856年~1939年)が精神分析を誕生させ、グスタフ・マーラー(1860年~1911年)が交響曲を作曲して活躍しました。また、政権樹立前のヒトラーも20世紀初頭のウィーンで鬱々と過ごしていました。

シーレの挑戦的で退廃的でありながら、人を惹きつける形容しがたい独特の作風は、この多様な価値観があふれる時代のウィーンの無意識的側面を表していたのかもしれません。