「皇帝ネロ」とは?「暴君」と呼ばれた理由や生い立ち・死因も解説

ローマ帝国の暴君として有名な「皇帝ネロ」ですが、その生い立ちや生涯、そして「暴君」と呼ばれる理由については、あまり知られていないのではないでしょうか。

この記事では、ネロの生涯や暴君となった理由、最後はどうなったのか死因などを解説。ネロが関わったローマのオリンピックや黄金宮殿も紹介します。

「皇帝ネロ」とは?

「皇帝ネロ」とは”暴君”として知られる第5代ローマ皇帝

「皇帝ネロ(37年~68年)」とは、16歳でローマ帝国の第5代皇帝となった、”暴君”として知られる皇帝です。邪魔になった周囲の人間を殺害する冷酷非情なふるまいに加えて、キリスト教徒を弾圧し、残酷な仕方で処刑したことから、「暴君」と呼ばれる悪名高い皇帝として知られるようになりました。

なお、「暴君」の意味とは、「人民を苦しめる君主」です。比喩的な意味で、「横暴にふるまう人」のことを指すこともあります。

「ネロ」は第3代ローマ皇帝「カリグラ」の妹の息子

ネロの母親は、初代ローマ皇帝アウグストゥスのひ孫で、第3代ローマ皇帝「カリグラ」の妹である「アグリッピナ」です(同名の母親と区別して小アグリッピナとも呼ばれます)。カリグラにとってネロは妹の息子、つまり「甥(おい)」となります。

皇帝カリグラは、精神に変調をきたして狂気のふるまいを見せるようになり、ネロを育てていた23歳の妹アグリッピナを、何の前触れもなく国家の敵だと非難し、流刑に処します。

アグリッピナは、カリグラが暗殺されるとローマに戻り、カリグラのあとを継いだ第4代皇帝クラウディウスの妻に収まりました。加えて息子のネロをクラウディウスの後継者とすることに成功し、クラウディウスを毒キノコ中毒に見せかけて毒殺。ネロを皇帝に即位させます。

初代皇帝アウグストゥスの血を引くネロの登場は、全ローマの注目の的となりました。

ネロの死因は「自死」、30歳で亡くなり最期の名言が伝わる

最期の言葉は「この世から一人の偉大な芸術家が消え去る」だったとされますが、真偽は明らかではありません。

ネロの家庭教師の教育もむなしく、ネロ自身は道徳哲学にも政治にも興味がなく、ローマ社会の中での放蕩なふるまいを継続。母、妻、部下など邪魔になった人物を次々に殺害し、セネカまでも自死に追いやりました。

ネロは、元老院から「国家の敵」と宣告され、逮捕のために兵が差し向けられました。ネロは召使いの家に逃れますが、逃げ切れないことを悟ると自死を決意し実行します。

「皇帝ネロ」とオリンピックの関係とは?

ギリシャに対抗して「ローマ」で2回のオリンピックを開催した

ネロは、ギリシャで行われていた4年ごとのオリンピア競技会に対抗して、ローマ競技会を計画し、実行しました。5年ごとに開くとしたローマのオリンピックは、2回開催されましたが、ネロの死とともに終了となりました。

ローマのオリンピックは「ネロ祭」と呼ばれて市民に人気だった

ローマのオリンピックは「ネロ祭」と呼ばれた壮大なお祭りでした。ローマ全体を会場として、アマチュアが競技を楽しんだ競技会は入場無料で行われ、市民に大盛況でした。

ネロは暴君として恐れられていましたが、面白いことや新奇なことをする若者として人気があるという側面も持っていました。

「皇帝ネロ」の有名なエピソードとは?

ネロの黄金宮殿「ドムス・アウレア」を建設した

ネロはローマの都市部を改造する壮大な計画を立てました。ギリシャ文化に憧れていたネロは、ギリシャ人の理想郷「アルカディア」をローマに再現しようと考え、それを「ドムス・アウレア(黄金宮殿)」と名付けました。

ネロの黄金宮殿「ドムス・アウレア」内部

現在コロッセオがある低地から、エスクイリーノの丘やパラティーノの丘に広がる敷地には、人工湖や庭園、本館が建てられ、贅と技術が尽くされました。本館内部は大理石やモザイクを贅沢に使い、ギリシャ神話に登場する神々などが壁画に描かれました。

ドムス・アウレアはネロの死後、火災に遭ったり別の建物が建てられるなどして大部分が消滅しましたが、15世紀に宮殿が発見されました。ラファエロらが見学に訪れ、その装飾様式を取り入れるなど、影響を受けました。

宮殿は第二次世界大戦後に修復され、1999年から一般公開されましたが、大雨による被害や崩落などが発生し、公開は中止されました。

ローマの大火に乗じた「キリスト教徒の迫害」

紀元64年に「ローマの大火」が起こりました。競技場の下から出火した火は9日間ローマを焼き尽くしました。被災者への支援や、再建に関してのネロは施策は市民に評判が良く、ローマは以前よりも美しく蘇りました。

しかし、思わぬ事態が起こります。大火で燃えた地域は、ネロの黄金宮「ドムス・アウレア」の建設予定地であったため、そこに住む住人を追い出そうとネロが火を放ったとのうわさが人々に広がったのです。

ネロは、この疑いを晴らそうと、キリスト教徒が放火したのだとして告発しました。ネロはキリスト教徒を捕らえて拷問し、ライオンに食い殺させるなど残酷な見世物として処刑を行いました。

この事件は、キリスト教史における初めてのキリスト教徒迫害となりました。キリスト教の聖書に収められた『ヨハネの福音書』には、「獣の数字666」が示され、その意味を考えよ、と書かれていますが、「獣」とは皇帝ネロを表しているとする説が有力です。

初代ローマ教皇「ペトロ」を迫害して殉教させた

初代ローマ皇帝ペトロ(生年不明~67年頃)は、ネロによるキリスト教徒迫害によって殉教したとされています。

外典である『ペトロ行伝』によれば、迫害が激化するローマから逃れようとペトロがアッピア街道を進んでいると、イエスが反対側から歩いてくるので、「主よ、あなたはどこへ行かれるのですか?(Domine, quo vadis?)」とペトロが尋ねます。イエスは「もう一度十字架にかけられるためにローマへ行く」と答えたので、ペトロは悟りを得てローマに戻り、捕らえられて逆さ十字架によって殉教しました。

「皇帝ネロ」の家庭教師「セネカ」とは?

「セネカ」はネロの家庭教師・補佐官を務めた哲学者

ネロを溺愛するアグリッピナ(ネロの母親であり、第3ローマ皇帝の妹)は、息子ネロを帝位につかせるため、強力な補佐を付けようともくろみ、その当時、弁論家・著述家として名声を博していた哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカ(紀元前1年頃~65年)を呼び寄せました。

セネカはまずネロの家庭教師となり、アグリッピナと協力して帝位につかせることに成功すると、皇帝ネロの補佐官となりました。

「セネカ」はネロの所信表明演説も執筆した

ネロの所信表明演説は、セネカが自身の著書『怒りについて』で述べた考えをもとに、セネカが執筆しています。また、セネカは『寛容について』をネロのために執筆しました。

その執筆のきっかけとなったのは、ネロが罪人の処刑指示書にサインを求められたとき、「文字など知らなければよかったのに」と言ったことだといいます。この言葉はネロに寛容の心があることを示しており、ネロに自分が持つ道徳心に気づいてほしいという願いを込めて本を書いたとセネカは述べています。

「皇帝ネロ」を描いた映画とは?

アッピア街道

暴君ネロのキリスト教徒弾圧を描いた映画『クォ・ヴァディス』

先に説明した、ペテロがイエスに言った言葉「主よ、あなたはどこへ行かれるのですか?(Domine, quo vadis?)」からタイトルを取った、ヘンリク・シェンキェヴィチの小説『クォ・ヴァディス』(1896年)を同名にて映画化したのが映画『クォ・ヴァディス』です。ハリウッドで制作されたスペクタル歴史映画で、1951年に公開されました。

キリスト教徒がネロを「アンチ・キリスト」と呼んで弾劾する原因となった、キリスト教徒弾圧の史実を中心に描いた作品です。

まとめ

ローマの歴史の中で、最も名前が知られた人物は、キリスト教文化圏においては皇帝ネロだといえます。紀元64年のキリスト教徒迫害事件が、ネロを有名にした要因です。ローマ皇帝の中には、ネロと同様に悪名高い皇帝は数多くいましたが、この事件のインパクトはキリスト教徒にとって大きなものであり、『ヨハネの黙示録』では「獣」の暗号として語られました。

なお、ネロがギリシャのオリンピックを真似て行った「ネロ祭」の第2回目は65年に行われましたが、キリスト教徒の迫害によって失墜した人気を挽回するという目的もあったそうです。ネロはナイーブな性格で、自分に向けられる敵意に耐えることができなかったと、塩野七生が『ローマ人の物語・悪名高き皇帝たち』に書いています。

皇帝ネロ、皇帝クラウディウス、皇帝カリグラの狂気と暴君の時代については『ローマ人の物語・悪名高き皇帝たち』が詳しいです。文庫版では4巻に分かれています。