「ラファエロ」とその生涯とは?「聖母」「天使」の有名な作品も

「ラファエロ・サンティ」は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「ミケランジェロ」とともにルネサンスを代表する三大巨匠の一人です。上品で繊細な絵画は日本でも人気がありますが、ラファエロとはどのような人物だったのでしょうか?この記事では、ラファエロの人物像や生涯と、代表的な聖母子像や天使の作品を解説します。

「ラファエロ・サンティ」とは?

『自画像』(1506年) ウフィツィ美術館
(出典:Wikimedia Commons User:Fæ)

「ラファエロ」とは、盛期ルネサンスを代表する”三大巨匠”の一人

ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi、 1483年~1520年)とは、フィレンツェからミラノやローマに舞台が移った頃の、「盛期ルネサンス」を代表する”三大巨匠”と呼ばれる画家の一人です。明快な構図と、優美な人物像が特徴です。

三大巨匠とは、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」(1452年~1519年)と「ミケランジェロ」(1475年~1564年)、そしてラファエロです。ラファエロは一番年下でしたが、他の二人の巨匠に負けない存在感を示していました。

盛期ルネサンスとは、神を中心とする世界観を脱し、古代ギリシャ・ローマの人間至上主義への回帰を目指したルネサンス芸術の頂点である、15世紀半ばから16世紀半ばまでの時期を呼びます。初期ルネサンスで蓄積された技術に加えて、さらなる理想的な美が実現されたのが盛期ルネサンスです。

なお、初期ルネサンスを代表する画家にはサンドロ・ボッティチェリ(1445年~1510年)がいます。ボッティチェリはフィレンツェに多くの業績を残しました。

「ラファエロ」の生涯とは?

ローマ遠景

「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「ミケランジェロ」から学んだ

ラファエロはイタリア中部の都市、ウルビーノ公国の宮廷画家の父もとに生まれました。ウンブリア派の画家ペルジーノの工房に弟子入りしたとされており、地元ウルビーノでキャリアをスタートさせました。技術の高さから、初期の頃から注文を多く受けました。

1504年~1508年の間は、フィレンツェに滞在しながら、主にフィレンツェとペルージャのパトロンたちのために絵画を制作します。この時期はレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロもフィレンツェで活動しており、ラファエロは二大巨匠の絵画を模写するなどして多くを学びました。また、レオナルドのスフマート手法や短縮法など最先端の技法を取り入れました。

「ローマ・ルネサンス」をもたらしたローマ教皇に重用された

ラファエロは教皇ユリウス2世(1443年~1513年)のもとで働くため、1508年の秋にローマに移りました。ユリウス2世は、ヴァチカン宮殿の教皇居室の壁画装飾を行わせるために有能な画家を集めていたのです。

ユリウス2世は、芸術を愛し、多くの芸術家を支援しました。システィーナ礼拝堂の天井画をミケランジェロに描かせ、サン・ピエトロ大聖堂の新築を決定するなどローマにおける文化事業を多く行い、ローマにルネサンスをもたらしました。

1513年にユリウス2世が亡くなると、次の教皇レオ10世(1475年~1521年)からもラファエロは重用され、多くの仕事を任されます。居室や回廊の絵画装飾を続けながら、システィーナ礼拝堂に飾るタペストリーのための下絵を制作し、さらにサン・ピエトロ大聖堂の造営主任だったブラマンテが死去したことから、後任にも任命されました。

「ラファエロ」の急逝とともにルネサンスは終焉に向かった

ラファエロは多忙を極める中で、37歳という若さでこの世を去りました。その死の原因は、過労と心労によるものと言われています。サン・ピエトロ大聖堂の造営主任としての重責や、周囲の人に気を遣う性格などが影響したともされます。

ラファエロの死を、レオ10世は非常に悲しんだとされますが、レオ10世もその翌年に亡くなり、二人の死をもってローマ・ルネサンスは終焉に向かいました。レオナルド・ダ・ヴィンチもラファエロの死の前年にフランスで亡くなっていました。

ラファエロが急死したとき71歳だったミケランジェロは、サン・ピエトロ大聖堂の建築主任を引き継ぎ、88歳で亡くなるまでローマで仕事を続けました。

「ラファエロ」の代表作品とは?

中期の傑作『アテネの学堂』(1509年 – 1510年)

『アテナイの学堂』 ヴァチカン宮殿「署名の間」に描かれたフレスコ壁画
(出典:Wikimedia Commons User:Paul_012)

ラファエロは、1508年~1511年に、代表作である『アテネの学堂』をはじめとする、ヴァチカン宮殿「署名の間」の壁画群を製作しました。『アテネの学堂』は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』とともにルネサンスを代表する壁画として知られています。

登場人物の内面描写や、関係性を表す配置の仕方など、フィレンツェ時代にレオナルドから学んだ成果が『アテネの学堂』に結実しました。

ルネサンス期のキリスト教徒にとって、聖書の教えを論理的に思考するためにはギリシャ哲学を深めることが重要だと考えられていました。『アテネの学堂』には古代ギリシャの哲学者たちが一同に会しています。

中心に描かれた二人は、向かって右がアリストテレスで、左がプラトンです。アリストテレスは倫理学を象徴するために自著『倫理学』を持ち、右手の掌を地上に向けています。プラトンはイデアの世界を象徴するために自著『ティマイオス』を持ち、右手で天を指しています。

「天使の絵」で知られる『システィーナの聖母』(1512年~1513年 )

『システィーナの聖母』(『サン・シストの聖母』)アルテ・マイスター絵画館
(出典:Wikimedia Commons)

『システィーナの聖母』または『サン・シストの聖母』は、ラファエロが描いた最後の聖母マリアです。マリアの背後にはたくさんの天使の顔が雲に浮かぶように幻想的に描かれています。下部に描かれた幼児天使像は、ローマ神話の愛の神「クピド」がイメージの源泉です。この天使の絵は非常に人気があり、現在絵はがきなどに転用されています。

聖母子像の傑作『小椅子の聖母』(1513年~1514年頃)

『小椅子の聖母』ピッティ宮殿パラティーナ美術館
(出典:Wikimedia Commons User:GianniG46)

ルネサンスの理想像を体現していると高く評価される『小椅子の聖母』は、ラファエロが30歳くらいの時に描いた、ラファエロ絵画の頂点を象徴する作品です。親しみやすいとともに気品のある人物像、鮮やかな色彩と繊細な表現が特徴です。

聖母子や聖家族を三角形の構成で描くレオナルドの手法をラファエロも取り入れており、この明快な構成でラファエロは多くの聖家族や聖母子を描きました。

遺作『キリストの変容』(1518年~1520年)

『キリストの変容』 ヴァチカン美術館
(出典:Wikimedia Commons User:Thuresson)

ラファエロが、死の直前まで手掛けていたのが、高さが4メートルを超える大作『キリストの変容』です。多忙を極めた晩年の時期に、工房の助手を使わず、すべてを自らの手で描きました。その技術と表現力の確かさは、ラファエロ芸術の総決算かつ傑作とされます。

「キリストの変容」とは、『マタイ福音書』に記された、イエス・キリストが山上で自らの神性を弟子たちに開示する重要な場面です。

ラファエロが息を引き取ったとき、この絵が亡骸のかたわらに飾られていたことをヴァザーリが伝えています。

まとめ

ラファエロは、37歳という若さで生涯を終えたにもかかわらず、ルネサンス芸術に大きな痕跡を残しました。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロに学びながら、晩年はその二人の巨匠と並んで称賛されるまでになりました。

ミケランジェロは、ともすると自分よりも高く評価されたラファエロをライバル視し、また敵意を見せて嫌っていました。ヴァザーリの伝記でラファエロは「天使のような貴公子」と称賛され、その優美な画風からも穏やかな生活を想像しがちですが、ルネサンスの大波の中でトップに立つには、相当の苦労があったことも伺われます。