「メメント・モリ」とは?本当の意味やラテン語と絵画・歴史も紹介

ラテン語の警句「メメント・モリ(memento mori)」は、中世ヨーロッパ芸術の主題として用いられ、いくつかの様式が生まれました。文学的な表現としてカタカナ語で使われることもあります。

この記事では、「メメント・モリ」の言葉の意味や、メメント・モリを主題とする絵画様式と絵画作品を紹介します。

「メメント・モリ」の意味とは?

「メメント・モリ」とは”死を想え”という意味の警句

「メメント・モリ」とは、”死を忘れるなかれ・死を想え”という意味の警句としてヨーロッパで用いられてきた格言です。

メメント・モリの思想は、古代ギリシャ・ローマから見られますが、中世ヨーロッパでは芸術作品のモチーフとして用いられました。絵画や彫刻では、メメント・モリを象徴する図像とともに、その言葉が記されることもあります。

「メメント・モリ」の由来はラテン語

ラテン語「memento mori」が原語で、直訳では”死ぬことを覚えていなさい”という意味です。「人の死を忘れるな」ということではなく、”人間は死すべき運命にあることを自覚して生きよ”という警句です。

「メメント・モリ」の歴史とは?

「メメント・モリ」誕生のきっかけはペストの流行

14世紀中頃のヨーロッパではペスト(黒死病)が爆発的に流行し、人口の半分の人々が亡くなる都市も存在しています。

当時は、ワクチンなど有効な治療法がなかったため、ペストに罹患した人はなすすべもなく、皮膚が黒く変色して苦しみながら命を落としました。

ペストが終息すると、「メメント・モリ」を主題とした絵画が多く描かれるようになります。

「メメント・モリ」はバロック期の精神を表す

常に死を想う「メメント・モリ」の精神は、17世紀初頭に興ったバロック芸術の主題としても多く用いられました。

古代ギリシャの調和美を追求したルネサンスが終わると、流動的で過剰な装飾を特徴とするバロック様式がヨーロッパで起ります。バロックは、宗教戦争などで荒廃、分裂した不安定な時代の精神を表したものでした。

バロック期には、常に死を想う「メメント・モリ」や、全ては虚無であるとする「ヴァニタス」などの様式が好まれました。

「メメント・モリ」の絵画様式とは?

ヴァニタス様式

15世紀ごろのペスト流行後に「死の舞踏」が描かれる

ペスト流行が去ったあとの15世紀頃には、「メメント・モリ」の思想のもと、盛んに「死の舞踏」(英語:Dance of death)と呼ばれる寓意画が描かれました。

「死の舞踏」のきっかけは14世紀にフランスで書かれた同名の詩、または生き残った人たちが半狂乱になって集団ヒステリーを起こし、広場で狂乱状態で踊ったことなどとされています。

「死の舞踏」は、死の象徴である骸骨が、年齢や身分、職業を問わずあらゆる人々を踊りながら墓場に導く様子を描いたものです。骸骨は墓穴を掘るためのスコップを持つこともあります。導かれる人々は、なかば骸骨姿となり、身にまとう衣服や持ち物などによって生前の職業などを示唆したり、あるいは個性を取り払われた単なる骸骨となって描かれるものもあります。

「死の舞踏」は、教会の壁画や教会を飾る絵画として描かれ、「メメント・モリ:死を忘れるなかれ」の象徴となりました。

さらに恐怖が高まる「死の勝利」のモチーフも登場

「死の舞踏」と同じ時期に「死の勝利」のモチーフも現れました。

骸骨が人々を踊りながら墓場に導く死の舞踏に対して、死の勝利では、死の象徴である骸骨があらゆる階級の人々を襲って蹂躙し、より恐怖が高まる様式で描かれました。

16~17世紀には「ヴァニタス」で頭蓋骨が描かれる

16世紀から17世紀にかけて、北ヨーロッパでは「ヴァニタス」と呼ばれる死をモチーフとした寓意画が盛んに描かれました。ヴァニタスとはラテン語で「空虚」という意味です。

人生の短さや虚飾の虚しさなどの寓意を表す静物画であるヴァニタスの様式は、15世紀頃から描かれるようになった静物画の格を、宗教画と同じ位置に引き上げるために思想性を盛り込む必要性があったことから発展しました。

「ヴァニタス」では、静物や人物などとともに、人間が死すべき運命であることを示す頭蓋骨が描かれるのが特徴です。頭蓋骨の他には、人生の短さを意味する時計、蝋燭、砂時計、パイプ、人生のはかなさを意味する花、果物、シャボン玉、刹那を意味する楽器などがヴァニタスの象徴として描かれました。

「メメント・モリ」の絵画とは?

バーント・ノトケ『死の舞踏』1435年頃

『死の舞踏』聖ニコラス教会(エストニア・タリン)
(出典:Wikimedia Commons User:WikedKentaur)

ドイツの画家バーント・ノトケ(1435年頃~1508年頃)の『死の舞踏』では、教皇、王、王妃が死神によって墓場に連れていかれる様子が描かれています。もともとはあらゆる階層の人々が描かれた大きな作品でした。どのような身分や職業であっても、死は必ず訪れるということをストレートに伝える風刺画です。

ブリューゲルの『死の勝利』1562年頃

『死の勝利』プラド美術館(スペイン・マドリード)
(出典:Wikimedia Commons User:Slowking4)

16世紀オランダの画家ピーテル・ブリューゲル(1525年頃~1569年)の作品『死の勝利』は、「死の舞踏」と「死の勝利」の2つの様式を融合して描かれた作品です。

遠景では火山が噴火し、船が炎上しています。左右の丘ではさまざまな方法で処刑される人々が描かれ、前景には車輪に轢き殺される人や骸骨に蹂躙される人々がいます。

本作品は、中世ヨーロッパの「メメント・モリ」の教訓を図像化した傑作であると評価されています。

まとめ

14世紀中頃のヨーロッパを襲ったペスト流行の恐怖に端を発し、絵画の主題として用いられるようになった警句「メメント・モリ(死を想え・死を忘れるな)」。中世ヨーロッパの世界観を構成していたキリスト教は、死後によみがえって永遠の幸福を得ることに意識を向けていました。つまり、骸骨に導かれて墓に入ることは、永遠の世界への入口だったということです。

「死の舞踏」の絵にどこか突き抜けた客観性を感じるのは、現実の世界よりも神が約束した永遠の世界にリアリティを持つ、中世の世界観が根底にあるように思われます。