「カラヴァッジョ」の生涯とその作品とは?表現技法や絵画も紹介

イタリアの画家「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ( Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年~1610年)」は、卓越した表現技法でバロックの巨匠たちに影響を与えました。しかしその傑作は、南イタリアをめぐる逃避行の中で生まれたものでした。この記事では、波乱に満ちたカラヴァッジョの生涯と、その表現技法や代表的な絵画作品を紹介します。

「カラヴァッジョ」とは?

リラ紙幣のカラヴァッジョの肖像

カラヴァッジョとは初期バロック様式を創始したイタリア人画家

カラヴァッジョとは、初期バロック様式を創始したイタリア人画家です。ルネサンスから移行したマニエリスム様式を否定し、徹底したリアリズムと明暗を強調した作風で新しい美術様式を確立しました。

本名はミケランジェロ・メリージですが、幼少期を過ごした町カラヴァッジョを自身の名として名乗りました。

革新的なカラヴァッジョの評価は歴史的に明暗が分かれていましたが、ミケランジェロとともに絵画界に大きな影響を与えたイタリア人画家として、近代には高く再評価がなされました。ユーロに切り替わる前の10万リラ紙幣には、カラヴァッジョの肖像が描かれるほどの、イタリアにおける国民的画家となっています。

ミラノで修行し、ローマで成功する

カラヴァッジョはペストによって父を失い、画業で身を立てるため13歳のときにミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノの弟子となります。ペテルツァーノは聖書画と細密画を得意とし、カラヴァッジョはそれを継承しました。

さらにカラヴァッジョはミラノにレオナルド・ダ・ヴィンチの残した『最後の晩餐』や、写実主義を伝統とする多くの宗教画から技法を学び取り、1592年、21歳のときに独立してローマに出ます。

身一つでローマに出たカラヴァッジョは、さまざまな工房を渡り歩きながら貧困の放浪生活を送ります。やがて当時のローマでもっとも眼識がある美術愛好家のフランチェスコ・デル・モンテ枢機卿が画家の才能を見抜き、パトロンとなりました。枢機卿は自邸に画家を住まわせ、生活面も援助しました。

安定した環境を手に入れたカラヴァッジョは、初期の頃は静物画や風俗画を描き、次に祭壇画も手掛けるようになります。その卓越した表現技術により、教会や貴族から注文がたくさん入り、人気画家となりました。後半生では宗教画のみを描きました。

放蕩の末に殺人を犯して逃亡する

カラヴァッジョは激しい性格で、たびたびもめごとを起こしていました。枢機卿の家を出た20代の終わり頃からは素行不良が目立つようになり、暴行障害や名誉棄損などで何度も逮捕されます。1606年、カラヴァッジョ34歳のとき、決闘によってついに殺人を犯します。死刑を宣告された画家は、ローマから逃亡しました。

マルタ島やシチリア島に逃げながら作品を描き38歳で客死

ローマから逃亡したカラヴァッジョは、ナポリ、マルタ島、シチリア島と南イタリア各地を流浪しながら、行く先々で絵を描きました。ローマ時代の作風は変化し、絵には強い闇と激情が現われます。

カラヴァッジョは4年間の逃亡の末、恩赦の期待を抱きながらローマに戻る途中、疲労と熱病により38歳の若さで客死しました。最後の姿は、とても画家には見えない無類者のようだったといいます。

「カラヴァッジョ」の表現技法とは?

カラヴァッジョ『聖マタイの殉教』

「バロック様式」の先鞭となった劇的な明暗と写実主義

カラヴァッジョは、鮮烈な光と深い闇のコントラストで劇的な宗教画を多く制作しました。また、徹底した写実主義による人物の激しい身振りや緊張感のある構成によって、17世紀にバロック様式として確立する壮大な美術様式の先鞭をつけました。

「ルーベンス」や「レンブラント」などバロック美術の巨匠に影響を与えた

カラヴァッジョの比類のない高い絵画技術は、バロックの巨匠であるフランドルのルーベンス(1577年~1640年)や、オランダのレンブラント(1606年~1669年)にも影響を与えました。

ルーベンスはカラヴァッジョと同時期に活動しており、ルーベンスが1601年にローマに滞在したとき、ローマにおける最先端の画家がカラヴァッジョでした。ルーベンスはカラヴァッジョの『キリストの埋葬』の模写を行っています。

レンブラントは、カラヴァッジョの光と影を用いる明暗技法の影響を受けながら独自の技法を編み出し、光の魔術師と称されました。

「カラヴァッジョ」の代表作品を紹介

カラヴァッジョのローマ時代の絵画と、1606年に逃亡してから描いた絵画の中から、代表的な作品を紹介します。

初期の風俗画『詐欺師』1594年頃

『詐欺師』キンベル美術館(フォートワース)
(出典:Wikimedia Commons User:Davidwr)

『詐欺師』は、ローマにおいてパトロンとなったデル・モンテ枢機卿に見い出されるきっかけとなった作品です。若者が二人のトランプ詐欺師にだまされる様子を描いた風俗画が、巧みな心理描写とともに描かれています。

カラヴァッジョが生活の中で目にしていた、低俗な風俗の様子を主題に選んだこの絵は、当時のローマでは斬新なものでした。

初期の宗教画『悔悛のマグダラのマリア』1595年頃

『悔悛のマグダラのマリア』ドリア・パンフィリ美術館(ローマ)
(出典:Wikimedia Commons)

『悔悛のマグダラのマリア』は、娼婦をモデルに描いたとされ、庶民の風俗画のように抒情的に描かれています。斜めに差し込んだ光が回心するマリアの奇跡の瞬間を切り取っているとされます。

マグダラのマリアの持ち物である香油壺と、罪を悔いて悔悛することを示す象徴として、装身具が床にちらばっています。のちの特徴である劇的な明暗の対比や、躍動的な人物の動きはまだ見られません。

イタリア美術史上もっとも優れた静物画『果物籠』1597年頃

『果物籠』アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)
(出典:Wikimedia Commons)

カラヴァッジョの作品において現存する唯一の独立した静物画が『果物籠』です。イタリアでは伝統的に人物画が好まれていましたが、静物画を得意としたカラヴァッジョは、静物と人物を組み合わせて描いました。

『果物籠』では、純粋な静物画を手がけ、静物画の価値を知らしめました。カラヴァッジョの『果物籠』は、イタリア静物画の先鞭となり、イタリア美術史上もっとも優れた静物画とされます。

自画像でもある『ホロフェルネスの首を斬るユディト』1599年頃

『ホロフェルネスの首を斬るユディト』国立古典絵画館(ローマ)
(出典:Wikimedia Commons)

旧約聖書外典『ユディト記』によれば、ユディトは、アッシリア人の将軍ホロフェルネスが眠っているときにその首をはね、アッシリアの支配からイスラエルを救ったユダヤ人のヒロインです。ユディトは娼婦がモデルをつとめ、ホロフェルネスは画家の自画像だとされます。

カラヴァッジョは斬首に強い興味を持ち、たくさんの斬られた首を描きました。当時のローマでは、日常的に公開処刑が行われており、カラヴァッジョも目にしていました。この作品は、1599年に行われた貴族の凄惨な処刑に端を発しているとされます。あまりに生々しい描写のため、賛否両論が起こりました。

バロック様式が確立した『キリストの埋葬』1602年~1604年頃

『キリストの埋葬』 バチカン美術館(ローマ)
(出典:Wikimedia Commons User:Ismoon)

『キリストの埋葬』は、カラヴァッジョの作品の中でもっとも高く評価され、多くの画家に模写されてきました。扇状に展開する人物構成と自然主義による人物の身振りは、劇場にいるかのような迫力を画面にもたらしています。

最後の自画像『ゴリアテの首を持つダビデ』1609年~1610年

『ゴリアテの首を持つダビデ』ボルゲーゼ美術館(ローマ)
(出典:Wikimedia Commons User:Ismoon)

ゴリアテの頭部を持つダビデは若き日のカラヴァッジョであり、ゴリアテは罪を犯した晩年のカラヴァッジョを写し取っており、この作品は二重の自画像となっています。切り取られた首を自画像とすることは、自身が罪人であることを悔悟しているとも言われています。

カラヴァッジョは作品の登場人物に自画像をたびたび反映させましたが、本作品が最後の自画像となりました。

まとめ

カラヴァッジョは、少年期にペストで父を失い、青年時代のローマでは貧困に苦しみ、画家として人気を得たものの放蕩の末に殺人を犯します。死刑判決を受け、斬首に怯えながらの南イタリアをめぐる逃避行が、バロック様式の萌芽となった壮大な絵画様式を生み出しました。

カラヴァッジョの波乱に満ちた特異な人生は、たびたび小説や映画の題材としても取り上げられています。