「デューラー」の生涯とは?代表作「うさぎ」「メランコリア」も

ドイツを代表する画家「アルブレヒト・デューラー」は、ヨーロッパ絵画の発展にさまざまな影響を与えました。ドイツ絵画の父、ニュルンベルクの天才画家とも称えられるデューラーとは、どのような人物で、どのような功績を残したのでしょうか?

この記事ではデューラーの生涯と功績を紹介し、あわせて水彩画と版画の代表作品を解説します。

「アルブレヒト・デューラー」とは?

『1500年の自画像』(1500年)アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)
(出典:Wikimedia Commons)

デューラーは「北方ルネサンス」を代表する画家

アルブレヒト・デューラー(ドイツ語: Albrecht Dürer、1471年~1528年)は、北方ルネサンスを代表するドイツの画家です。ネーデルラント(北方ヨーロッパ)とイタリア・ルネサンスの絵画を統合しました。

古代ギリシャ・ローマの古典芸術復興運動であるルネサンスは、15世紀初頭のイタリアから始まり、15世紀末から16世紀にかけて、アルプス以北にも波及しました。アルプスから北の地域で広がった北方ルネサンスの興隆をけん引し、やがて西欧世界全体に影響を与えたのがデューラーです。

さらに、木版画、銅版画、油彩画、水彩画など多岐にわたる幅広い画法と、それまでの伝統になかった多様な主題の設定は、西洋美術の発展に大きな影響を与えました。

「デューラー」の生涯と功績とは?

ニュルンベルク

南ドイツ・ニュルンベルクに生まれ「ドイツ・ルネサンス」を創始した

デューラーは南ドイツのニュルンベルクで、金銀細工師の父のもとに生まれました。ニュルンベルクは、アルプス山脈の南北を結ぶ重要な経済の拠点でもあり、当時のヨーロッパで最も繁栄した都市でした。

デューラーは青年期にヨーロッパ諸国を遍歴し、生涯の中でイタリアに2度留学しました。各地で最先端の絵画技術を学び、独自の様式を創り上げました。

デューラーはドイツに改革的な自然主義とリアリズムの絵画様式を確立し、ドイツ語圏での新しい運動はドイツ・ルネサンスと称されます。

デューラーは古代ギリシャ・ローマを手本とした裸体像や神話をテーマとした主題、そしてイタリア・ルネサンスの骨格である正確な遠近法を取り入れました。さらにイタリアから受容した様式にドイツ・ゴシックの伝統や、ネーデルラント絵画の特徴を融合させ、絵画に革新をもたらしました。

ドイツ・ルネサンスの代表的な画家は、デューラーの他にティルマン・リーメンシュナイダー(1460年頃~1531年)、ルカス・クラーナハ(1472年~1553年)、ハンス・ホルバイン(1497年~1543年)などがいます。

版画や水彩画の地位を向上させた

中世の時代には、版画や風景画、また水彩画による静物画などは、芸術の中で低く見られていましたが、デューラーの高い技術力によって描かれた水彩画や版画は、それまでの価値観をくつがえし、高く評価されるようになりました。

デューラーは木版画と銅版画を350点以上を制作しました。初期に制作された最も優れた木版画は、世界の終末と神の王国の到来を告げる『ヨハネの黙示録』にもとづく15点の版画集『ヨハネ黙示録』です。版画集は1497年~1498年に刊行され、当時の人々の終末思想の高まりとあいまって、大反響となりました。

当時は銅版画が主流で木版画は新しい技術でしたが、複製を多く制作できる利点がありました。

晩年は著述活動に没頭した

晩年のデューラーは著述活動に没頭しました。1508年から、『画学生の糧』と題した画学生のための教本を書き始めました。遠近法、色彩、人体比例といった絵画理論や、芸術に対する哲学について書き進めました。

「美は何であるか、私は知らない。神以外誰も知らない」というデューラーの有名な言葉は、教本の前書きに書かれた言葉です。

デューラーは56歳で熱病を原因とする病気により亡くなりました。

「デューラー」の代表作品を紹介

水彩画の傑作『野うさぎ』(1502年)

『野うさぎ』アルベルティーナ美術館(ウィーン)
(出典:Wikimedia Commons User:Rainer Zenz)

『野うさぎ』は、自然観察から生まれた水彩画の中で最も優れた作品の一つです。デューラーは最初に自然研究に取り組んだ画家のうちの一人です。水彩の上に不透明なガッシュでハイライトが加えられています。小動物が主題の芸術作品であることを示すため、大きくモノグラムが記されています。

銅版画の傑作『メランコリア I』(1514年)

『メランコリア I』ウフィツィ美術館(フフィレンツェ)
(出典:Wikimedia Commons User:Jan Arkesteijn)

デューラーは1513年と1514年の2年間は木版画の制作を停止して、銅版画に集中しました。この期間に、デューラーの銅版画の傑作「三大銅版画」と呼ばれる『騎士と死と悪魔』(1513年)、『メランコリア I』(1514年)、『書斎のヒエロニムス』(1514年)が制作されました。

これらの作品は、デューラーの人文主義の思想を造形で表したもので、その意味を読み解くには一定の知識が必要です。人文主義とは、ルネサンス期において聖書やギリシャ・ローマの古典文献の研究をもとにして、神や人間存在の根本問題を考察した思想のことです。デューラーは人文主義の知識人でもありました。

三大銅版画の中でも最も有名なのが『メランコリア I』です。翼のある人物は、物思いにふける様子で手にコンパスを持っています。周囲には球体や幾何学体、木工道具、天秤、砂時計、キューピットなどが描かれています。

これらが何を意味しているのかは、多くの研究者によって研究されてきました。有翼の人物を取り巻く物は「幾何学(ゲオメトリア)」を表しており、人物はその擬人像だといいます。中世において幾何学は学芸の基礎であり、すべての技術の基本でした。絵画表現に科学的な基盤を置いていたデューラーは、幾何学を擬人化した画家を描きました。

タイトルである「メランコリー」は人間の憂鬱質を表しており、憂鬱質の人は神的インスピレーションを得ることができるとされていました。メランコリーは芸術家の気質、つまりデューラー自身の気質を表しています。

まとめ

デューラーはネーデルラント芸術とイタリア美術の統合を試みるとともに、版画や水彩画の地位を向上させました。さらにデューラーは、科学的、哲学的に基礎づけられた芸術を意図し、真の芸術を創造するには技術の習得と同様に、教養の修得も大切だと考えていました。デューラーは芸術と科学・哲学の融合も試みたのです。

また、デューラーは、作品に「AD」のモノグラムのサインを記し、しばしば制作年と主題を説明する短い文章やメッセージを書き入れました。デューラーは名前の頭文字を組み合わせたモノグラムを初めて絵画に記した芸術家です。

デューラーは、絵画や版画は、人の記憶や姿を未来に伝えるためのメディアだと考えていました。制作年とともに記されたサインは、自分の目で見たものを未来の人に伝えるというデューラーの主体的なメッセージであるといえます。