「モディリアーニ」の生涯と作品とは?「ジャンヌ」の肖像も解説

モディリアーニ風とも呼ばれる、長い首と瞳のない目の肖像画スタイルを確立したモディリアーニ。前衛芸術家たちが躍動した20世紀初頭のパリを生きたモディリアーニは、どのような画家だったのでしょうか?

この記事では、モディリアーニについてと、悲劇のカップルとして知られる妻ジャンヌとともにその生涯を紹介します。あわせてモディリアニの描いた肖像画についても解説します。

「モディリアーニ」とその生涯とは?

アトリエでのモディリアーニ
(出典:Wikimedia Commons User:Carnby)

「モディリアーニ」とは”エコール・ド・パリ”を代表する画家

アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani、1884年~1920年)とは、20世紀初頭のパリで活動した「エコール・ド・パリ」を代表するユダヤ系の画家です。

モディリアーニの絵画は、憂愁をおびた人物の肖像画で知られています。画家は新しい絵画のあり方を追求し、新しい様式を確立しましたが、その私生活は退廃的で破滅的でした。

「エコール・ド・パリ」とはモンマルトルに集まったボヘミアン的な画家たち

エコール・ド・パリ(フランス語:École de Paris)とは、「パリ派」という意味です。20世紀の前半にパリのモンマルトルやモンパルナスに集まったさまざまな出身国の外国人芸術家を指します。美術上の運動ではないため一定の様式というものはなく、それぞれが抒情的で個性的な作風を持ち、のちの画家たちに影響を与えました。

エコール・ド・パリを代表する画家は、モディリアーニのほかにキスリング、キース、ユトリロ、藤田嗣治などがいます。また、狭義のエコール・ド・パリは特定の流派に収まらない画家の総称ですが、この時代にモンマルトルに住んでキュビズムを創始したピカソも、広義のエコール・ド・パリの画家に含まれます。

モディリアーニ風と呼ばれる「長い首・瞳のない肖像画」の様式美を確立した

モディリアーニは裸婦や肖像画など、人物像のみを描きました。伝統的な様式を脱し、それまでになかった独自のスタイルを確立しました。特に長い首と顔や、瞳のない能面のような顔が描かれたメランコリックな肖像画が、「モディリアーニ風」と称されるほどに画家の代名詞となりました。

モディリアーニは一時期、彫刻の制作に集中していた時期があり、その時に取り組んだ古代のモチーフが影響しているという説もあります。

アルコールと麻薬におぼれて夭折した美男の画家として知られる

エコール・ド・パリの芸術家たちは、社会の規範にとらわれずに歓楽的で自由な生活を送っていました。モディリアーニはアルコールや麻薬におぼれ、退廃的で破綻した生活のすえに35歳の若さで夭折しました。

また、画家はたいへんな美男でもあり、その生涯は伝説となりました。画業よりもドラマティックな生涯が注目されてきました。

「モディリアーニ」と妻「ジャンヌ」の波乱の生涯とは?

16歳のジャンヌ・エビュテルヌ
(出典:Wikimedia Commons User:Bff)

モディリアーニの芸術を語るうえで、妻ジャンヌの存在が欠かせません。二人は短くも波乱の生涯を送り、伝説のカップルとなりました。次に妻ジャンヌとからめたモディリアーニの生涯を紹介します。

「ジャンヌ」はモディリアーニを追って自殺

モディリアーニの人生において、重要な登場人物がのちに妻となるジャンヌです。ジャンヌが画学生だった18歳の時、14歳年上で32歳のモディリアーニと出会い、二人は恋に落ちます。美しいジャンヌの肖像をモディリアーニは繰り返し描きました。

二人の生活は長くは続かず、モディリアーニは結核性脳膜炎で35歳の若さで急逝します。その二日後の早朝に、21歳のジャンヌは二人目の子どもを身ごもりながら、アパルトマンの6階から身を投げて自殺しました。

ドラマをはらんだ二人の悲劇の物語は、その当時に誇張・脚色された伝説を生み、作品以上に注目を浴びたといいます。近年は誇張を排した真の生涯が見直されていますが、ドラマティックな人生であったことは間違いありません。

「モディリアーニ」と妻「ジャンヌ」の波乱の半生は映画化された

1958年『モンパルナスの灯』、2004年『モディリアーニ 真実の愛』と、モディリアーニの半生は2度、映画化されています。どちらもモンパルナスを舞台に、売れない異端の画家だったモディリアーニの苦悩と、ジャンヌとの悲劇の半生を描いたものです。

「モディリアーニ」の代表作品を紹介

『モイズ・キスリングの肖像』(1915年)

(出典:Wikimedia Commons)

モディリアーニは、教養がある美男の文学青年で、柔らかい物腰から女性に人気がありましたが、多くの友人にも囲まれていました。交遊していた友人の芸術家たちの肖像も多く残しています。この肖像はポーランド出身の画家キスリングです。二人はアトリエを共有していたこともありました。

他にも20歳で夭折したフランスの小説家レイモン・ラディゲや、フランスの詩人マックス・ジャコブ、ルーマニアの彫刻家ブランクーシ、フランスの詩人ジャン・コクトー、スペインのパブロ・ピカソなどをはじめとして、当時のパリに集まり、カフェで芸術談義をしていた個性あふれる多くの芸術家たちの肖像を描きました。

また、肖像画は描きませんでしたが、モディリアーニは藤田嗣治とも親しく交遊していました。

『赤毛の若い娘 ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』(1918年)

(出典:Wikimedia Commons User: Charvex)

モディリアーニはジャンヌの肖像画を25枚あまり描きました。ジャンヌの肖像画には瞳の描かれたものと描かれないものがあります。本作品は瞳が描かれ、実際のジャンヌの持っていた強いまなざしが際立っています。

『ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』(1919年)


(出典:Wikimedia Commons)

モディリアーニが描いた瞳のないジャンヌは、ほとんど同じ型の顔で、人格や心理から自由になった匿名的なイメージに昇華されています。絵に奥行きを与えている直線を用いた背景は、人物の曲線とのバランスをとる効果も与えています。

まとめ

退廃的な生活、夭折、妻の悲劇、といったモディリアーニの波乱の生涯は神話となり、その死後に画家の注目を集めることに貢献しました。生前は認められませんでしたが、謎めいた肖像画はその死後にモディリアーニの人気を高めました。

同時代のパリの画家がこぞってパリの風景や風俗を描いたのとは対照的に、モディリアーニは肖像画のみを描きましたが、自画像は1枚しか描きませんでした。