「ダイアナ妃」の生涯とは?ベンツ事故の真相や名言も紹介

「ダイアナ妃」は「悲劇のプリンセス」と呼ばれ、その生涯は伝説となり、映画や本などで取り上げられ続けています。なぜダイアナ妃は悲劇のプリンセスと呼ばれるのでしょうか?

この記事では、悲劇と呼ばれるゆえんである離婚や事故などに触れながら、ダイアナ妃の生涯について紹介します。あわせてダイアナ妃の人柄がわかる「名言」も紹介します。



ダイアナ妃とその生涯とは?

ダイアナ妃に捧げられたバラ「プリンセス・オブ・ウェールズ」

「ダイアナ妃」は人気の絶頂から「悲劇のプリンセス」へ

ダイアナ妃(正確にはダイアナ元妃)は1961年にイギリスの名門貴族の家に生まれ、1981年にイギリス王室のチャールズ皇太子と結婚すると世界中の人気者となりました。しかし不和により1996年に離婚し、その翌年に交通事故によって亡くなりました。

美しい容姿と親しみやすい人柄で世界的に人気を集めていた中での突然の事故死は、世界に衝撃を与えました。子どものころの両親の離婚や幸せではなかった結婚生活という境遇も重なり、ダイアナ元妃は悲劇のプリンセスと呼ばれるようになり、その生涯は伝説となりました。

なお、ダイアナ元妃の正式な呼称は「Diana, Princess of Wales(ダイアナ、プリンセス・オブ・ウェールズ)」です。日本語では「ウェールズ公妃ダイアナ」と記されます。チャールズ皇太子の称号がプリンス・オブ・ウェールズであるため、離婚後も結婚時の称号を名乗る貴族の慣習によるものです。

20歳でチャールズ皇太子と結婚、35歳で離婚

名門貴族の家の令嬢であったダイアナは、16歳のとき姉のセーラが主催したパーティーでチャールズ皇太子と初めて出会います。そのときは交際に発展することはありませんでしたが、幼稚園の先生をしていた18歳のとき、パーティーで皇太子と再会したことから交際が始まり、世界が注目する中1981年に結婚します。

結婚した翌年にはウィリアム王子が誕生し、その2年後にヘンリー王子が誕生しました。新しいロイヤルファミリーは世界中から祝福されましたが、ヘンリー王子が誕生した頃にはチャールズ皇太子との関係は破綻していました。

拒食症に陥るなど精神的にも追い詰められながらも、表面上は理想的なロイヤルファミリーを演じていたダイアナですが、1996年、35歳のときについに離婚しました。

離婚後は積極的に慈善活動を行う

ダイアナ妃は、チャールズ皇太子との不和とともに、伝統を重んじる皇室の生活にも馴染めないことにも苦しみました。離婚して自由になると、地雷除去問題やエイズ問題などへの支援を深め、人道的な活動を積極的に行いました。

日本へは皇太子妃時代に3度来日

1986年の親善訪問、1990年の天皇陛下(現在の上皇様)即位の礼の式典への参列、1995年の英国赤十字社副会長として単独での来日と、ダイアナ妃は日本に3回来日しています。

ダイアナ妃は日本でも人気が高く来日のたびに歓迎されましたが、とくに最初の来日時には日本中にダイアナ旋風が巻き起こり、「ダイアナ・カット」と呼ばれるダイアナ妃をまねたへアースタイルが流行するほどでした。

ダイアナ妃の事故と陰謀説の真相とは?

葬儀が行われたウェストミンスター寺院

ダイアナの交通事故死については、数々の陰謀論が生まれ、それにまつわる映画や事件を追求する本などが出版されてきました。公式には運転手の過失による事故であるとされています。事故の概要について紹介します。

36歳のときベンツの自動車事故で非業の死を遂げる

離婚した翌年の1997年、ダイアナ元妃はパリで交通事故にあい、その翌日に36歳という若さで亡くなりました。このとき乗っていたベンツには、交際していたエジプト人のドディ・アルファイドと、ドディのボディ・ガード、運転手、そしてダイアナの4名が乗っていましたが、助かったのはボディ・ガードだけでした。

恋人のドディは、エジプト人の大富豪でロンドン老舗デパート「ハロッズ」のオーナーでもあるモハメド・アルファイドの息子でした。注目を集める二人の交際は、パパラッチ(有名人の写真を撮ろうと負いまわすカメラマンの俗称)の恰好のターゲットとなっていました。

事故の原因は運転手の過失

1999年に発表されたフランス当局の調査報告では、ホテル・リッツを出発してドディのアパートに向かっていたベンツの運転手が、処方薬の服用に加えて飲酒していたことに加え、制限速度以上のスピードで運転し、コントロールを失ってトンネルの柱に激突したことが事故の直接的原因であったと報告されました。
パパラッチのオートバイ追跡を振り払おうと、猛スピードで走ったこたがベンツが制御不能になったことが事故の遠因であったため、事故にかかわったパパラッチたちはイギリス国民から激しく批判されました。

ダイアナ妃の死因は内臓の損傷

ダイアナ妃は激しい内臓の損傷によって亡くなりました。救急病院で集中的な治療手当を受けましたが、翌日の早朝に亡くなりました。病院に運ばれたときは昏睡状態にあり、最後まで意識は戻りませんでした。

顔の額に傷がひとつあるのみで、外から見た損傷はほとんどなかったといいます。なお、一人だけ助かったドディのボディガードは体の損傷がひどい状態で、何度も手術を繰り返して復帰しました。

ダイアナ暗殺の陰謀説をモハメド・アルファイドが主張

息子ドディを亡くしたモハメド・アルファイド氏は、ダイアナとドディは暗殺されたとする陰謀説を主張しました。未来の英国王の母がアルファイド一族となるのを阻止するため、イギリス政府が二人を暗殺したとの主張でした。

フランス当局からは偶発的な事故であったとの結論が出ましたが、陰謀説はイギリス国民の中に根強く残り、現在に至るまで幾度となく蒸し返され、議論が続いています。

ダイアナ妃の名言を紹介

自由を愛したダイアナ妃の生き方がよく表れた名言を紹介します。

I like to be a free spirit. Some don’t like it, but that’s the way I am.
私は自由な精神でいたいのです。それを好まない人もいますが、それが私なのです。

I don’t go by the rule book. I lead from the heart, not the head.
私はルールブックに従いません。私は頭ではなく、心に従います。

まとめ

イギリスの名門貴族の令嬢として生まれ、チャールズ皇太子妃となったダイアナは、その美しさと親しみやすさで世界中の人に親しまれました。不幸にも事故で亡くなりましたが、彼女の残したウィリアム王子とヘンリー王子が話題にのぼる際には、ダイアナ妃の思い出が語られ、その存在感は薄れていません。

彼女の葬儀は、準国葬として行われ、エリザべス女王夫妻はじめ王室一族と、各国から国王や首相が参列してウェストミンスター寺院で執り行われました。お墓はダイアナの出身であるスペンサー家が所有する小さな島にあります。

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趣味は読書とヨーロッパ旅行です。ドイツには5年余り滞在経験があります。某大学の人間科学部とデザイン学部を卒業。人生が豊かになる知識の探索を人生の糧にしています。