「カタコンベ」とは何か?ローマ・パリとキリスト教美術の関連も

ローマの地下墓所「カタコンベ」は、少々不気味な観光スポットとしても人気が高いようです。美術史におけるカタコンベは、初期キリスト教美術の資料が残る唯一の場所でもあります。

この記事では、カタコンベの意味や目的とともに、カタコンベに残る初期キリスト教美術について解説します。あわせて、厳密にはカタコンベではないものの、カタコンベとして観光名所となっている「カタコンブ・ド・パリ」についても紹介しています。

「カタコンベ」の意味とは?

ローマのカタコンベ入口

カタコンベとは初期キリスト教徒を中心とした「共同地下墓所」

「カタコンベ」とは、一般的に2世紀頃から5世紀の初め頃までに、初期キリスト教徒を中心として使用された“共同地下墓所”のことです。ラテン語の「ad catacumbas(凹んだ地(の墓地)」の意が語源のイタリア語”catacombe”を語源とする外来語です。

カタコンベは、キリスト教徒だけでなくユダヤ教徒や異教徒も使用していましたが、次第に区域は分かれてゆきました。

かつては、キリスト教が公認される前の迫害時代にキリスト教徒が秘かにミサを行った場所だと考えられていましたが、カタコンベは地下聖堂ではなく、あくまでも埋葬場所でした。

4世紀に入って教会堂建築が盛んに行われるようになると、カタコンベは減ってゆきました。多く作られたローマのカタコンベは5世紀中に使われなくなり、入口は土砂に埋もれて次第に忘れ去られ、16世紀末から再発見されることになります。

ローマのアッピア街道沿いに遺跡が多く残る

カタコンベは、地下に通廊を掘り、そこから網の目のように枝分かれした小通廊を掘ることで、簡単に拡張することができました。貧しい者は通廊に掘られた横穴に葬られ、豊かな者は専用の墓室に設けられたほこらのような墓「アルコソリウム」に葬られました。

カタコンベは他の地域でも作られましたが、とくにローマ周辺に多く作られました。中でもアッピア街道沿いには、軟らかい火山性石灰岩をうがうなどしたカタコンベの遺跡が多く残ります。

アッピア街道沿いの、サン・カッリストやサン・セバスティアーノ、ドミティッラなどのカタコンベは人気の観光名所ともなっています。ドミティッラのカタコンベは地下三層にわたり、通廊は全長15メートルに及びます。

英語では「catacomb(カタコーム)」フランス語では「catacombes(カタコンブ)」

イタリア語「catacombe(カタコンベ)」を語源として、英語では”catacomb(カタコーム)”、フランス語では「catacombes(カタコンブ)」と表現します。ドイツ語では”katakombe(カタコンベ)”となり、スペルは違いますがイタリア語と同じ発音です。

「カタコンベ」に残る初期キリスト教美術の資料

カタコンベには天井画、壁画、石棺浮彫などが残る

ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスが313年にキリスト教を公認するまでの、キリスト教美術についてわかっていることは多くありません。そんな中で、ローマのカタコンベの壁画装飾が、初期キリスト教美術の唯一のまとまった資料となっています。

永遠の生命を願う初期キリスト教徒にとって、埋葬における儀式や墓は大切な信仰のひとつでした。カタコンベ内には、キリスト教徒による天井の装飾画や壁画、石棺浮彫などが残されています。

ローマ以外にも、ナポリ、シチリア島などのカタコンベにもキリスト教美術が発見されています。

初期にはローマ葬礼美術が受け継がれた

古くは、羊飼いなどの牧歌的な田園風景や、川辺や海辺の風景、「オランス」と呼ばれる両腕を上げて祈る人などの、ローマ葬礼美術の伝統を受け継いだ図像が壁画などに描かれました。また、冥界に下った「竪琴を奏でるオルフェウス」などの古代ギリシャ神話の主題なども、キリスト教に取り入れられて使われました。

キリスト教のモチーフ「魚・オリーブをくわえた鳩」

次の時代には「魚・オリーブをくわえた鳩・棕櫚の枝・冠」といった、キリスト教を象徴するモチーフが登場します。

「魚」の図像は、”イエス・キリスト、神の子、救い主”のギリシャ語の頭文字が「イクスース(魚)」のつづりになるため、キリストの象徴として用いられます。迫害の時代には、キリストを表す秘密の暗号として、カタコンベの装飾にも用いられました。

また初期のキリスト教では、ユダヤ教における偶像崇拝の禁止が継承されていたため、キリストの顔や姿を描いてはならないとされていたことからも、シンボルが多用されました。

聖書を題材とした救済や受難の場面

カタコンベの装飾には、3世紀の終わりごろから聖書の場面が表れます。旧約聖書からはアブラハム、ダニエル、ノアなどの神による救済のエピソードが、新約聖書からはキリストの奇跡の場面などが描かれました。

さらに、3世紀の終わりから4世紀の初め頃にカタコンベがローマの各教区の管轄に置かれるようになると、洗礼や聖体の秘跡を暗示する図像が表れます。イエスの死と復活にまつわる受難伝は、4世紀中頃から描かれました。

「カタコンブ・ド・パリ」とは何か?

カタコンブ・ド・パリ

「カタコンブ・ド・パリ」はローマの名称を引用したパリの”市営納骨堂”

パリで観光名所ともなっている「カタコンブ・ド・パリ」は、大規模な墓地の移転のための発掘により、大量に遺骨が移転された”市営納骨堂の名称”です。

もともとは採石場であったところに、パリ市内の墓地から人骨を移したもので、その数は600万〜700万人とされています。大量の人骨を使って装飾が施された地下墓地は、整備された18世紀当初から人気の観光地ともなっています。

実際に死者が埋葬されたローマの歴史的な共同地下墓所とは違い、単なる移転場所であるため、カタコンベとは違うものですが、イタリアのカタコンベを引用して「カタコンブ・ド・パリ」と呼ばれています。

まとめ

「カタコンベ」は、2世紀頃から5世紀の初め頃までに作られ、初期キリスト教徒を中心として利用された「共同地下墓所」です。内部に残されたキリスト教美術の天井画や壁画などは、初期のキリスト教美術を伝える唯一の資料ともなっています。

墓地移転のために人骨を集め、それらの人骨で装飾も行ったパリの市民納骨堂が「カタコンブ・ド・パリ」と呼ばれることから、「骸骨寺」をカタコンベと呼ぶことがありますが、本来の地下共同墓地の定義とは異なります。

カタコンベはそのミステリアスなイメージから、SFやミステリーの映画や小説のモチーフとしてしばしば引用されています。