「ルイ16世」といえば、フランス革命でギロチンにより処刑された悲劇の国王として知られています。あるいはマリー・アントワネットの夫として話題にされること多いかもしれません。
この記事では、18世紀のフランス国王「ルイ16世」について、その生涯やギロチンとの関わりなどを紹介します。あわせてフランス革命や国王家族の運命なども紹介します。
「ルイ16世」とは?ギロチン処刑の背景も解説
ルイ16世肖像(アントワーヌ=フランソワ・カレ画、1788年)
(出典:Wikimedia Commons User:Kaho Mitsuki)
「ルイ16世」とはフランス革命で処刑されたブルボン朝国王
「ルイ16世」(フランス語: Louis XVI、1754年~1793年)とは、近世フランス王国の王朝であるブルボン朝の第5代目の国王です。ルイ15世の孫として生まれ、19歳のときに後継者となって即位し、1774年~1792年まで在位しました。
在位中にフランス革命が勃発し、絶対王権が廃止されたのち、ギロチンで処刑されました。処刑されたときは国王を廃位されていたため、フランス国王ルイ16世としてではなく、市民「ルイ・カペ―」の名で、一介の死刑囚として処刑されました。
「ルイ16世」は性格が良く、善意の国王
ブルボン王朝は千三百年続いていましたが、ルイ16世治世時の18世紀後半には、長年の王政によってはびこった悪弊や、植民地戦争や天候不順による凶作の影響などが重なり深刻な財政難に陥り、王国は混乱していました。しかしそれらの問題は、ルイ16世が引き起こしたものではありませんでした。
ルイ16世は国民の幸せを願っており、フランス革命の当初は自由と平等の革命思想にも賛成していました。ルイ16世は優しい性格で好人物であったとされており、軍隊を使ってただちに革命を弾圧したり、首謀者たちを虐殺したりすることはしませんでした。いわば善意の国王であったことが、自身の身を滅ぼすことに繋がってしまったといえます。
ルイ16世は「ギロチン」の改良に加わっていた
ルイ16世を処刑した「ギロチン」は、当時拷問を伴う残酷な方法で行われていた死刑方法を終わらせ、死刑囚に不要な苦しみを与えないため、いわば人道的な目的から考案されたものでした。
また、当時は平民は絞首刑で貴族は斬首刑が行われていましたが、これらは失敗してやり直すことも多く、拷問と同じく残酷なものでした。そのため、迅速かつ確実に死にいたらしめることができるギロチンは、人道的な装置として欧州では受け止められていたのです。
拷問を終わらせ、「人道的な」ギロチンを導入し、自らもその改良に加わったのはルイ16世その人でした。そのような意味でも、皮肉な運命を辿った国王でした。
ルイ16世の処刑人は「死刑執行人サンソン」
中世のヨーロッパの都市では、死刑執行人は世襲制の伝統がありました。
フランスでは近世までその伝統が続いており、パリの死刑執行人を長年務めていたのはサンソン家です。その4代目の当主シャルル=アンリ・サンソンが、国王ルイ16世とその妃マリー・アントワネットのギロチンによる死刑を執行しました。
しかしサンソンは国王を敬愛していたため、葛藤の中で執行を行いました。世襲の国王を、世襲の死刑執行人が処刑するという、世襲の伝統が二人の悲劇を生んだのでした。
ルイ16世とフランス革命の関係とは?
「フランス革命」によって絶対王政が停止された
フランスを治めていたブルボン朝は、18世紀後半には植民地戦争や天候不順による凶作の影響で深刻な財政難に陥りました。貴族への課税で危機を逃れようとしますが、貴族はブルボン朝の絶対王政に反抗し、1789年に国民議会を結成します。
混迷の中、1791年に民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が勃発します。同年には憲法が制定され、絶対王政が停止されました。
革命は過激化し、1793年の1月にルイ16世が処刑され、この年からジャコバン派の独裁を経て、1795年に総裁政府が成立し、革命は収束します。
総裁政府成立後の政情が不安定な中、ナポレオンが登場すると、1802年に終身統領となり、フランスのナポレオン時代が始まることになります。
ルイ16世が処刑された原因「ヴァレンヌ逃亡事件」
ルイ16世が処刑される原因となったのは、「ヴァレンヌ逃亡事件」と呼ばれる、一家のパリからの逃亡未遂事件です。
フランス革命が勃発した2年後に、妻アントワネットの実家であるオーストリアのハプスブルク家に援助を求めるため、ルイ16世一家はパリを脱出しました。しかし逃亡は失敗し、亡命を画策していたと喧伝されたことから国王への信頼と権威は失墜し、革命の敵だとみなされたことが処刑の原因となりました。
しかし国王は革命を支持すると発言しており、また王朝の安全が国家の安全であると考える王家の伝統に従って一家の安全を確保しようと考えたことからの行動であり、ルイ16世は国外逃亡を考えていたわけではありませんでした。
ルイ16世の家族の運命とは?
ヴェルサイユ宮殿
革命を生き延びたのは娘マリー・テレーズだけ
ルイ16世が処刑されたとき、妻のマリー・アントワネットと娘マリー・テレーズ、息子のルイ・シャルル(ルイ17世)、国王の妹のエリザベートの4人の家族が塔に幽閉されていました。
息子のルイ・シャルルは病気になって命を落とし、妻と妹は処刑されたため、革命を生き延びたのは、娘マリー・テレーズだけでした。
マリー・テレーズは、革命後にルイ16世の弟の長男ルイ・アントワーヌ王太子の妃となり、ルイ16世の一家の中で唯一天寿を全うしました。
妻マリー・アントワネットも革命で処刑された
ルイ16世の妻マリー・アントワネット(1755年~1793年)は、オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘として生まれ、14歳のときにフランス王朝を救うための政略結婚によってフランス皇太子のもとに嫁ぎます。
夫がルイ16世として即位すると王妃となりますが、フランス革命に反対して逃亡したことの失敗によって裁判にかけられ、フランス最後の王妃として37歳の若さで断頭台に消えました。
贅沢が大好きで、フランス国費を浪費したと革命時には糾弾されましたが、実際は豪華な宮殿を嫌って田舎住まいを模した別荘で子どもたちと暮らしていました。
日本では池田理代子による人気漫画作品『ベルサイユのばら』にその人生が描かれたことで広く知られています。
ルイ16世の息子ルイ17世は幽閉され病死した
ヴァレンヌ逃亡事件ののち、一家は民衆によってタンプル塔に幽閉されました。ルイ16世が処刑されると、恐怖政治のもと残された家族の待遇は悪化し、当時6歳だった息子のルイ・シャルルは一人で別の部屋に移され、劣悪な環境下に幽閉されました。
ルイ・シャルルは両親が処刑されたあとも不衛生な環境のもと幽閉され、2年後に10歳で病死します。ルイ16世亡き後、王党派はシャルルをルイ17世として即位したものとみなしましたが、名目上のことであり、自身が国王と呼ばれていることも知らないまま亡くなりました。
まとめ
ルイ16世は、フランスの国が国王のものから国民のものになるきっかけとなったフランス革命のさなかにたまたま在位していたため、自身に非がないのにもかかわらす、無残にもギロチンで処刑されてしまいました。
さらに妻のマリー・アントワネットも処刑され、長男は劣悪な環境の中に幽閉されて10歳で病死するなど、歴史の犠牲となったのがルイ16世一家でした。
長女のマリー・テレーズは、ルイ16世の弟の長男の妃となり、ルイ16世の一家の中で唯一天寿を全うしましたが、子どもはなかったため、ルイ16世の子孫は途絶えることとなりました。