武烈天皇は5世紀末から6世紀の初めにかけて在位した天皇で、18歳の若さで崩御されました。若き天皇でしたが、その暴虐振りがすさまじく、民衆にも恐れられたと言われています。
この記事では、武烈天皇の人柄や武烈天皇が暴君だと証明する数々のエピソードのほかに、皇統断絶の危機なども詳しくみていきましょう。
「武烈天皇」とはどんな人?
「武烈天皇」は第25代天皇
「武烈天皇(ぶれつてんのう)」は第25代に数えられる天皇で、在位は5世紀末から6世紀の初めだと言われていて、確かな在位年はわかっていません。
仁賢天皇(にんけんてんのう)と春日大娘(かすがのおおいらつめ)の第一皇子として生まれて、その名が小泊瀬稚鷦鷯命(おはつせわかさぎきのみこと)だったことから、「小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせわかささぎてんのう)」と呼ばれることもあります。
仁賢天皇が崩御されると、武烈天皇は10歳という異例の若さで即位されました。また、18歳で崩御されています。
都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)で、その石碑が今でも奈良県桜井市にある十二柱神社に残されています。
武烈天皇は民が恐れた暴君だった
武烈天皇は、民が恐れるほどの暴君として知られています。歴史書として名高い『日本書紀』には、武烈天皇のさまざまな暴虐な振る舞いが残されています。しかし最古の歴史書と呼ばれる『古事記』には、武烈天皇の暴虐について記載がないことから、日本書紀に記載された武烈天皇の悪行は創作ではなかったのかという議論があります。とはいえ一般的には、武烈天皇は諸悪を行った天皇という悪評がついて回っています。
武烈天皇の異常な行為を明らかにするエピソードとは?
妊婦のお腹を割くなどの数々の暴挙
一つも良い行いをすることなく、悪いことばかりした天皇だったと言われるほど、武烈天皇は凶暴な天皇だったと言われています。『日本書紀』には武烈天皇の数々の暴挙として、次のようなエピソードが記載されています。
- 妊婦のお腹を割いて胎児を見る
- 生きている人の爪をはぎ、その指と手で山芋を掘らせる
- 人の頭髪を抜き、その人を木に登らせると、その木を切り倒してその人を殺す
- 池の樋(とい)に人を落として、その人を矛(ほこ)と呼ばれる諸刃(もろは)をつけた長柄の武具で刺し殺す
女性に馬との性交渉を強要
武烈天皇の暴虐な行いのなかには性的な残虐行為もありました。それは、裸にした女性を平板の上に乗せて、牡馬と性交渉させたことです。また性行為が終わると女性の陰部を確認して、もしもその女性の陰部が濡れていれば殺害して、陰部が濡れていない女性は官婢(かんぴ)として国の奴隷として扱いました。
なぜこのような残虐行為を行ったのかは定かではありませんが、武烈天皇はこうした行為を10歳頃から行っていたと言われています。
武烈天皇と皇統断絶
武烈天皇の皇位継承者はいなかった
武烈天皇の死因は不明ですが、武烈8年(506)年12月8日に崩御されます。在位期間はたったの8年でした。
天皇の後継者は天皇の血筋を引く皇子女がなられるのですが、武烈天皇には春日娘子という皇后がいたものの、皇子や皇女はいませんでした。後継者がいないため、武烈天皇の崩御後は皇統が途絶えそうになりました。
武烈天皇の後継者として継体天皇が即位
武烈天皇が崩御された翌年507年1月4日に、次期天皇を選出するための協議が行われました。大友金村や物部麁鹿火(もののべのあらかひ)などによる話し合いの結果、応神天皇の5世孫で越前に住む男大迹王(おおどのおおきみ)を天皇として迎えることが決められました。
武烈天皇による勅令や遺詔(遺言のこと)もない状況で天皇の後継者が決められる珍しい事例でした。
男大迹王は第26代の天皇「継体天皇」として継体元年(507年)2月4日に即位されました。御年58歳で即位された後、24年間在位されて、82歳で崩御されました。
武烈天皇の御陵と神社
武烈天皇の御陵は「傍丘磐坏丘北陵」
武烈天皇の御陵は、奈良県の香芝市にある「傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)」です。その陵形は山形になります。
武烈天皇は継体2年10月にこの御陵に埋葬されたと言い伝えられていて、現在では宮内庁の管理下におかれています。
櫻田山神社は武烈天皇が主祭神の神社
武烈天皇を主祭神として祀っているのは、「櫻田山神社(さくらだやまじんじゃ)」です。宮城県栗原市にあり、正式名称は「山神社」なのですが、神社のある地区名が「櫻田山」のため、その地区名を名乗った「櫻田山神社」が一般的な名称です。
櫻田山神社は6世紀の初めに武烈天皇の側近だった鹿野掃部之によって建立されて、現在ではお笑いタレントの狩野英孝の実家としても有名です。
地元では、櫻田山神社は安産と子育ての神社として知られていて、毎年4月の第2日曜日に例大祭が開かれています。
まとめ
武烈天皇は第25代天皇で、10歳で即位した若き天皇でした。しかしその数々の暴挙振りから民衆が恐れるほどの暴君として知られています。ただし『古事記』には武烈天皇の暴虐についての記述がないことから、武烈天皇の暴君説は創作かもしれないとも言われています。