「崇峻天皇(すしゅんてんのう)」は後の推古天皇となる炊屋姫に推されて天皇になりましたが、蘇我馬子も関係しています。また、崇峻天皇は聖徳太子とも関係があるようですが、どのような関係になるのでしょう。
この記事では、崇峻天皇の即位した経緯や家系のほかに、崇峻天皇の暗殺とその理由についても紹介します。
「崇峻天皇」とは?
「崇峻天皇」は推古天皇に推挙された第32代天皇
「崇峻天皇」とは第32代天皇です。生まれた年はわかっていませんが、蘇我馬子が守屋討滅に向かった時の一員として加わったことで、蘇我馬子および後の推古天皇となる炊屋姫に推されて西暦587年に即位しました。しかし、蘇我馬子を排除しようとしたと疑われて、592年11月に蘇我馬子の命により東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)により暗殺されました。
「崇峻天皇」の読み方は「すしゅんてんのう」
「崇峻天皇」は「すしゅんてんのう」と読みます。「崇」の音読みは「すう」ですが、「す」と縮めて読みますので、気をつけましょう。
崇峻天皇には泊瀬部天皇など3つの名前がある
崇峻天皇には、崇峻天皇以外に3つの呼び名があります。『日本書紀』では崇峻天皇は皇子名からとって「泊瀬部(はつせべ)天皇」と呼ばれています。一方、『古事記』には「長谷部若雀天皇」と記されていますし、また『法王定説』には「倉橋(くらはし)天皇」と記されています。
崇峻天皇の家系図
崇峻天皇の父母は欽明天皇と小姉君
崇峻天皇の父母は、父が欽明(きんめい)天皇で、母が小姉君(こあねのきみ)です。崇峻天皇は第十二皇子として生まれました。
欽明天皇は539年に即位して、在位中には百済から日本に初めて仏教が渡来しました。その一方で、異母兄との対立から内乱が起こり、国外では任那(みまな)の日本府が新羅(しらぎ)によって滅されるなど、国内外において政治的に緊張していたとも言われています。
母親の小姉君は蘇我稲目の娘で、兄弟に蘇我馬子がいます。また姉の蘇我堅塩媛(そがのきたしめ)は、小姉君と同じく欽明天皇の妃です。
崇峻天皇の妻は「小手子」
崇峻天皇の妻は「小手子(おてこ)」で、小手子は大伴糠手子(おおともぬかてこ)の娘になります。大伴糠手子は朝廷にも仕えていた豪族で、日羅が百済から吉備児島に到着したときには、大伴糠手子が朝廷の指示で慰労しました。
ただし、蘇我系の崇峻天皇が大伴家の娘と結婚したことで、蘇我氏が大王家の嫡流の危機になることから、歓迎されなかった婚姻であったと考えられます。
崇峻天皇の子女は「蜂子皇子」と「錦代皇女」
崇峻天皇と小手子の間には、第三皇子として蜂子皇子(はちこのおうじ)、また娘には錦代(にしきて)皇女」がいます。「蜂子皇子」は蘇我馬子に追われているところを聖徳太子に囲われると、のちに北へとのがれて、山形県にある八乙女浦から羽黒山に登って、出羽三山を開いたと言われています。
崇峻天皇と聖徳太子とは叔父と甥の関係
崇峻天皇と聖徳太子とは叔父と甥の関係になります。聖徳太子は、崇峻天皇の兄である用明天皇の第二皇子です。
崇峻天皇に関わる出来事
百済から恵総が渡来
崇峻元年(西暦588年)に、百済から国使として恵総(えそう)などの僧が渡来しました。恵総は釈迦の遺骨とされる仏舎利を献上しました。また588年には飛鳥寺も完成し、仏教の影響が徐々に明白になってきました。
当時の日本はまだ仏教が受け入れられていなかったので、内政にも関わる出来事だったと言えるでしょう。
『崇峻天皇御書』は日蓮が崇峻天皇を引用した御書
『崇峻天皇御書』とは日蓮が四条金吾に送った御書で、崇峻天皇の物語を引用していることから『崇峻天皇御書』と呼ばれています。崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺されたエピソードを引き合いに出し、金吾の短気なところを抑えるように諭しています。
崇峻天皇の最後は?
崇峻天皇は蘇我馬子によって暗殺
崇峻天皇は正史に暗殺されたという記録が残っている唯一の天皇です。崇峻天皇は、西暦592年(崇峻5年)11月3日に、蘇我馬子(そがのうまこ)に指示を受けた東漢直駒によって暗殺されました。
その東漢直駒は、蘇我馬子の娘だった河上娘(かわかみのいらつめ)を盗んで妻としたことにより、蘇我馬子によって殺されました。
暗殺理由は崇峻天皇が蘇我馬子を排斥しようとしたから
崇峻天皇が暗殺された理由は、そもそも蘇我馬子の先代である蘇我稲目が物部氏と仏教を我が国に入れるか入れないかで対立していたことが始まりです。この争いが次世代である蘇我馬子にも引き継がれて、ついには曽我物部戦争が起こりました。
この戦争に蘇我馬子側が勝利したので、蘇我勢力から崇峻天皇が即位しました。しかし、崇峻天皇は勢力が強くなった蘇我馬子を排斥しようとしたため、それを知った蘇我馬子は、崇峻天皇を殺めてしまったのです。
暗殺のきっかけは妻・小手子の猪についての密告か
蘇我馬子に暗殺のきっかけを与えたのは、崇峻天皇の妻である小手子の密告だったという説があります。小手子は崇峻天皇に軽んじられたことを恨み、献上された猪を例えに用いて、崇峻天皇が蘇我馬子を殺そうとしていると密告しました。それを聞いた蘇我馬子は、崇峻天皇の暗殺を決意したと言われています。
崇峻天皇陵と神社
崇峻天皇陵は「倉梯丘陵」
崇峻天皇陵は「倉梯丘陵」で、「くらはしのおかのみささぎ」と読みます。陵形は円丘で、奈良県桜井市にあります。
崇峻天皇が祀られる「堀越神社」
聖徳太子は崇峻天皇の晩年を不幸に思い、御祭神に崇峻天皇を奉った堀越神社を創建しました。堀越神社は四天王寺七宮のひとつで大阪市の天王寺にあり、「一生に一度の願いを聞いてくれる神」として知られています。
まとめ
崇峻天皇(すしゅんてんのう)は蘇我系の天皇でありながら、その勢力に恐怖感を抱き排斥しようとしたことが知られて、蘇我馬子の配下にあった東漢直駒によって暗殺された天皇です。暗殺された唯一の天皇として知られていますが、当時の国政は蘇我氏の影響が大きかったことを伝えるエピソードにもなっています。