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「一休宗純」の生涯とは?人物像と漢詩・著書から名言も紹介

「一休宗純(いっきゅうそうじゅん)」(1394~1481年)は室町時代に生きた僧侶です。「一休さん」の呼び名で親しまれていますが、その人物像は複雑で多層的です。幼くして母と別れて出家し、大人になってからは破戒僧のように放蕩の限りを尽くした一方で、多くの書や漢詩を残すなど優れた文化人でもありました。

ここでは一休の生涯と、その功績について紹介します。

「一休宗純」とはどんな人物?

「一休宗純」は「臨済宗」の禅僧

「一休宗純」とは、禅宗である臨済宗の僧侶です。一休の母は、後小松(ごこまつ)天皇に寵愛された側室だとされますが、帝の命を狙っているとの誹謗によって宮中を追われ、小さな庵で一休を産みます。

母の悲運と自らの数奇な生い立ちは、一休の生涯に少なからず影響を与えたとされています。一休は6歳で出家し、戒名の「宗純」を得ます。それから各地の寺を転々としたのち、25歳の時に大徳寺の高僧から一休の法名を授かります。

「一休」の名は「一休み」の句から与えられた

宗純は師から今の境地を問われ、次のような一句を詠みました。

「有漏地より無漏地へ帰る一休み 雨ふらば降れ風ふかば吹け」

「有漏地(うろじ)」とは、煩悩に汚れた世界としてのこの世のことで、「無漏地(むろじ)」とは、穢れや煩悩がない境地のことです。宗純は、人生は無漏地へ向かうまでの一休みのところにいるだけのこと、雨が降ろうが風が吹こうが、短い一生なのだから気にすることはない、と言ったのです。師は悟りの境地を見出したと宗純を称え、「一休」の名を与えました。

「一休宗純」の生涯とは?

「一休」は風狂の自由人として生きた

一休の生きた時代は応仁の乱などが起こった戦乱の時代でした。あわせて15世紀は干ばつや冷夏、台風など異常気象が起こり、飢饉や疫病も発生し、人々は苦しみの中にありました。さらにその混乱の中、仏教は形骸化して僧侶の多くは堕落していました。

そのような時代の中、一休は寺を出て各地を行脚しながら自由人として88歳まで生きました。一休は説法を行うとともに歌を詠んだり画を描いたりしながら、奇妙な言動も重ねるような「風狂」の生活を送りました。

「風狂」とは

「風狂」とは、仏教の戒律などを逸した行動について、その悟りの境地を現したものとして肯定的に評価する言葉です。風変わりな一休の行動には、仏教界への批判と抵抗がその背景にあったとされています。

また一休は、仏教の戒律はことごとく破り、飲酒や男色、女犯も公然と行っていました。晩年は盲目の女性「森女(しんじょ)」と生活を共にしました。

一休の生涯は弟子たちが一休の活動をまとめた『一休和尚年譜』で詳しく知ることができます。

「一休」の死後「とんちの一休さん」として説話が描かれた

江戸時代に一休の説話をもとにした『一休ばなし』が作られました。そこでは子供の一休と、大人の一休も書かれており、子供時代の一休さんが描かれるようになったのは明治時代からです。アニメなどで有名な「とんちの一休さん」は、この頃からイメージが作られたものと考えられます。

このような一休を題材にした書物は江戸時代以降、多数が刊行されており、一休の人気はいつの時代でも高いものでした。また、同時代に生きた浄土真宗の「蓮如」とも一休は親交が深く、軽妙なやりとりなどの逸話が多く残されています。

「一休」は通称「一休寺」に眠る

酬恩庵(しゅうおんあん)は、衰退していた妙勝寺を一休が中興して酬恩庵と命名し、1481年に88歳で亡くなるまでの晩年を過ごした寺で、遺骨が葬られています。通称「一休寺(いっきゅうじ)」と呼ばれ、枯山水の庭園が有名です。

「一休」の著書と書

「一休」の主著は『狂雲集』

一休の著書としては漢詩集の『狂雲集』が代表作とされています。「狂雲」とは一休の自号で、「迷い雲」の意味があり、群れを離れて不思議な動きをするちぎれ雲のような様子を表した語です。中国では、「狂」という言葉は、頭がおかしいというような意味ではなく、文学的な高い境地を示す言葉として用いられます。

その内容は、タイトルの通り、自由奔放で、一休の破戒を印象づける詩が多いのが特徴です。次のような詩があります。

原文:風狂狂客起狂風 来往婬坊酒肆中
書き下し文:風狂狂客、狂風を起こし、来往す、婬坊酒肆の中
(ふうきょうのきょうかくきょうふうをおこし、らいおうす、いんぼうしゅしのうち)

風狂の物狂いは狂風を起こして遊郭と酒屋をうろうろしている。という意味です。このあと、眼のある禅僧なら我に問え、斬ろうとしても虚しく空を切るだけだ、と続きます。

「諸悪莫作 衆善奉行」の書が有名

一休は優れた書家でもありました。中でも「諸悪莫作 衆善奉行」と書いた対の掛け軸が、勢いのある筆遣いで、芸術的にも評価が高く有名です。京都の真珠庵が所蔵しており、「狂雲子」の落款があります。

これは「諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」という「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)」と呼ばれる句のうちのはじめの2句です。

「どんな悪もなさず、善を行い、みずから心をきれいにすること。これが仏の教えである」という意味です。「七仏通誡偈」の「七仏」とは、仏教の創始者である釈迦と、それ以前に存在したとされる六仏を合わせた七仏のことをいい、七仏すべてが上記の教えを説いたとする言葉です。

この句は、仏教の教義の根本を表す言葉として有名な句です。

「一休」の名言

一休の遺言は「大丈夫だ、心配するな。なんとかなる」

一休が亡くなる間際に、どうしても困ったときに開けないさい、と弟子たちに残した手紙には「大丈夫だ、心配するな。なんとかなる。」と書かれていたとされます。また、臨終の最後の言葉は「死にとうない」だったとされています。

どちらも真偽のほどはわからない逸話ですが、一休の人柄や生き方を伝えるものだといえます。

「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」

おめでたい門松を冥土の旅の一里塚だというような、奇をてらったような句を一休はたくさん詠みました。

「道を説き禅を談じて、利名を長ず」「野老は蔵し難し、蓑笠の誉れ」

利名を優先する当時の禅宗を批判する句と、野にある自らの生活を誇る句です。このような反骨の句も多く詠んでいます。

「仏界入り易く、魔界入り難し)」

一休は「仏界易入 魔界難入」という書を残しており、川端康成が作品の主題としたことが知られています。

まとめ

実在の「一休」の生涯は、「とんち小僧の一休さん」の明るく愉快なイメージとは違い、遊郭に出入りしたり、禅僧を過激に風刺したりする型破りな一生でした。しかしただの破壊僧であったなら、後の時代まで続く人気の高さは得られなかったでしょう。

弟子が書いた一休の活動記録『一休和尚年譜』には、一休の晩年に付き添った「森女」のことは書かれておらず、また『狂雲集』の研究もそれほど深くされていないということです。一休の、常識を超越しすぎて捉えどころがないその生き様が、民衆に愛されたゆえんなのかもしれません。