「円空」とはどんな人物?彫刻作品の特徴や木喰との違いも解説

「円空仏」は力強いフォルムで円空の信仰の深さを伝えています。「円空」とはどのような生涯を送った人なのでしょうか?ここでは円空の生涯と円空の仏像について、概要を解説します。同じく全国を遊行した「木喰」との違いについても説明します。



円空の生涯とは?

まずはじめに「円空(えんくう)」(1632年~1695年)の生涯について解説します。

円空は幼い頃に母を洪水で亡くし出家した

円空は1632年に現在の岐阜県に生まれ、七歳の時に母を洪水で亡くして浄土真宗の寺に預けられて出家したとされています。その後しばらくの間の足跡はわかっていませんが、修験者として修行を積んだり、密教を学んだりしていたとされています。

円空は白山信仰の修行者だった

円空は20代の頃に「白山信仰(はくさんしんこう)」に出会います。白山信仰とは、山そのものをご神体として信仰する山岳信仰のことで、白山を水源とする流域を中心に信仰されていました。

奈良時代の修験道の僧侶、泰澄(たいちょう)が白山に登頂して開山し、白山信仰は修験道として体系化され、円空も修験道(しゅげんどう)の修行をしたとされています。

修験道とは、「山へ入って厳しい修行を行い、悟りを得ること」を目的とした日本古来の山岳信仰が仏教と結びついたもので、日本独特の宗教の形態である神仏習合(しんぶつしゅうごう)のひとつです。円空が多くの仏像を残した寺は、泰澄と深いかかわりのある白山信仰の寺でした。

神仏習合とは、日本土着の信仰である神道と、仏教の信仰が混淆して一つの信仰体系として習合された日本独自の宗教現象のことをいいます。円空は、神仏習合思想の上に、多くの仏像を残しました。

円空は「造仏聖」として諸国を遊行した

円空は32歳の時、神社の神官の家を訪ねて3体の仏像を彫り、これが記録に残る初めての仏像となります。その後も各地で仏像を作り、「造仏聖(ぞうぶつひじり)」として活躍しました。

「造仏聖」とは、寺を持たず、放浪しながら仏の像を作る遊行僧のことをいい、幕府からは下賤とされ、差別される対象でした。しかし一般庶民にとってはありがたい僧侶として受け入れられており、各地に円空が地元の人と交流したたくさんのエピソードが残っています。

遊行は岐阜から北海道に及び、その後名古屋から岐阜へ戻りました。

円空は十二万体の仏像を作る大願を発した

円空は十二万体の仏像を作る大願を発し、59歳の時に10万体を達成したことを仏像の背面に記しています。確認されているものとして、平成24年の時点で約5,300体が確認されています。

円空は断食をして即身仏となった

円空は61歳で十二万体の造仏を成就したとされ、64歳の時に断食を行い、母が眠る地で即身仏となって入定しました。

「円空仏」彫刻の特徴とは?

次に円空仏彫刻作品の特徴を説明します。

円空は三角柱の一木から仏を彫った

円空の彫刻形態は基本的に三角柱に割った一木から掘り出すスタイルでした。丸太をいくつかに荒く割って三角柱を作り、即興的に自由に掘り出してゆく造形スタイルは、円空の十二万体達成の祈願を支える合理的なものだったといえます。

また、円空は曲がった木や節のある木、さらに木っ端や枯れ木なども利用して、木成りそのままを生かした像も作りました。

道具として鋸は使わず、鉈やノミで断ち割るように彫っていったと考えられています。素材の持つ特徴を最大限に生かしていました。

円空様式の仏の形が始まったのは北海道

円空は1666年、35歳の時に北海道に渡り、一年余りを過ごす中で、初期の円空様式を完成させます。左右対称の観音座像がそれです。円空が北海道に渡ったのは、仏教が広まっていなかった蝦夷の地に仏の慈悲を広め、各地の霊山の供養をするためだったと考えられています。

内地に戻ってからは、十一面観音や立像へ移り、仏の形は自由に変化してゆきます。

『大般若経』の修復が自由な作風への転機となった

円空は43歳の時、『大般若経』の修復に携わり、見返しに添絵を58枚描いており、その古典の模写が自由奔放な作風の契機となったとされます。また、『法華経』に書かれた女人往生によって母の成仏を確信し、この法の素晴らしさを広めるために仏像を彫る決意をしたとも考えられています。

「円空」と「木喰」の違いとは?

「円空」と同じく、諸国を遊行しながら仏像を彫った仏教行者に「木喰(もくじき)」(1718年~1810年)がいます。両者の違いはどのようなものなのでしょうか?

円空は17世紀に木喰は18世紀に諸国を遊行した

円空が没してから20年ほど後に木喰が生まれました。また、円空が没したのは1695年で、木喰が遊行を始めたのは1773年の56歳の時です。その間、80年ほど空いているため、両者を知っている人はいなかったことが考えられます。

円空は自然の形を生かし、木喰は微笑を浮かべた温和な作風

円空の作風は、木の持つくせを生かした自然な形であるのに対し、木喰の作風はそれとは対照的に丁寧に作りこんだ優しい微笑みを浮かべているのが特徴です。民芸運動を推進した柳宗悦は、木喰の仏像を、仏の慈悲の心を表す「微笑仏」と呼びました。

円空は、仏教を知らない人々に対して、自然に逆らわないように自然のあるがままでいることが貴いことだと説いて回っていたとされ、その思想が円空仏の姿に表されているといえます。

まとめ

円空は幼い頃に洪水によって母を亡くし、出家してからは修験道の荒行を積むなどして修行し、30代から造仏聖となって、全国を遊行しました。最後は十二万体造仏の悲願を達成し、母の眠る長谷川の地に即身仏となって入定しました。驚くべきスピードで仏像を彫り上げたその力の根源は、母への鎮魂であったのでしょうか。

円空の仏像は、各地のお寺などに祀られているものは拝観できないものがほとんどですが、一部は公共機関や寺院で公開されています。岐阜県には円空仏を拝観できる寺社や美術館などの施設が多数ありますので、検索してみてください。