「只管打坐」の意味とは?語源となる教え『正法眼蔵』も解説

「只管打坐」は曹洞宗の道元が説いた、ただひたすら座り続ける坐禅修行のやり方です。只管打坐は「心身脱落」の境地を目指します。これらの言葉には、どのような思想が込められているのでしょうか?また、欧米で人気のマインドフルネス瞑想とは違う効果が得られるものなのでしょうか?

この記事では只管打坐と道元の思想についてと、栄西の臨済宗やマインドフルネスとの違いについても解説します。

「只管打坐」の意味や読み方とは?

「只管打坐」の意味は「ひたすら坐禅すること」

「只管打坐」の意味は、“ひたすら坐禅すること”です。「只管」とは、ひたすら、ただもっぱらそのことだけをする、という意味であり、「打坐」とは、座ること、坐禅をすることという意味です。

また、「只管打坐」の重要なポイントは、悟りを求めるなど、なんらの目的も持たず、ただひたすらに坐禅することにあります。

「只管打坐」の読み方は”しかんたざ”

「只管打坐」の読み方は“しかんたざ”です。

「只管打坐」の元となった”教え”とは?

「只管打坐」は曹洞宗の道元の教え

「只管打坐」は、曹洞宗の開祖である「道元」(1200年~1253年)の教えです。道元は24歳のときに南宋に渡り、中国曹洞宗の如浄(にょじょう)に師事して禅修行に4年余り打ち込みました。如浄の禅が「只管打坐」であり、道元もその思想を受け継ぎました。

帰国後は禅道場を開き、弟子を育成しました。福井県にある永平寺が現在の日本曹洞宗の大本山であり、一般者でも坐禅体験を行うことができます。

道元は禅修行中に「身心脱落」の悟りを得た

如浄のもとで禅修行を行っているとき、道元は如浄の発した「身心脱落」という言葉によって悟りを得たとされます。「身心脱落」とは、身体と心の束縛から離れるということであり、すなわち「私が、私が」という自我意識から離れ、無我になった状態ということです。

「只管打坐」によって「心身脱落」の境地に至ることが、道元の禅の教えです。道元の著書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』には、「仏道を学ぶとは、自己を学ぶことです。自己を学ぶとは、自己を忘れることです」と書かれています。

『正法眼蔵随聞記』に道元の教えが書かれている

道元の弟子の懐奘(えじょう)が書いた『正法眼蔵随聞記』には、道元の教えが平易に記録されています。その中から坐禅についての道元の教えを紹介します。

仏道を学ぶ行いとはどのようなことか、という弟子の問いに道元は次のように答えます。

ひたすら坐禅することである。人といっしょにいておしゃべりせず、耳が聞こえない人のように、口がきけない人のようになって、常にひとりで坐る坐禅を捨てないのである。

道元は学道の最も大切なことは坐禅であると次のように教えています。

仏道を学ぶかなめは、坐禅が第一である。文字ひとつ知らず、学問のない、愚鈍な人でも、坐禅を続けると、長年のあいだ参学した聡明の人にもまさるものである。仏道を学ぶ人は、ひたすら坐禅して、他のことにはかかわってはならない。

「只管打坐」と「マインドフルネス」の違いと効果・やり方とは?

「今の瞬間に注意を向ける」という意味の「マインドフルネス」と呼ばれる瞑想法が近年注目を浴びています。「只管打坐」とやり方や効果の違いはあるのでしょうか?

「只管打坐」は釈迦が行っていた正法の坐禅修行

道元が伝えた「只管打坐」は、釈迦が行っていた正法の坐禅です。釈迦が行っていたのは精神を集中して「瞑想」にふける修行ですが、坐禅と同じ意味です。

釈迦の「瞑想」とは、両脚を組んで座り、ただひたすら精神を集中します。何かを唱えたり、考えたりすることはありません。道元が目指したのが釈迦の行っていた瞑想修行です。

迦が行っていた正法の坐禅修行である「只管打坐」は、何かを得ることを目的として行うのではないところがポイントです。

「マインドフルネス」は宗教性を除いたエクササイズ

アメリカから広まった「マインドフルネス瞑想」は、仏教の思想を取り入れたもので、そのやり方は坐禅と同じであるといえます。「只管打坐」との大きな違いは、マインドフルネスには宗教性がないことです。

もう一つの違いとして、只管打坐はその目的に実利を求めませんが、マインドフルネス瞑想には実利を得たいという目的があるということです。

例えば、瞑想をしてリフレッシュしたい、心の安らぎを得たい、それによって心身ともに健康になりたい、といった目的です。

マインドフルネス瞑想は、仏教の思想を身心の健康に役立てるための手法として、合理的にとりいれたものだといえます。

どちらも「よりよく生きるためのトレーニング」

宗教的な土台をもった只管打坐と、エクササイズとしての瞑想とは、目指す境地や目的には大きな違いがあるといえます。

しかし、集中して瞑想や坐禅を行うことで雑念が取り除かれ、心が落ち着いたり、リラックスするという、得られる効果については同様であるといえます。

さらに瞑想や坐禅は、脳が活性化したり、創造性が発揮されるともいわれています。どちらもよりよく生きるための、トレーニングであるといえるでしょう。

自分に合ったやり方を探そう

坐禅のやり方については、脚を組んで背筋を伸ばし、半眼でゆっくり呼吸するなど、基本は同じですが、マインドフルネス瞑想では、集中するための工夫を行ったり、心理療法的な指導をするところもあります。

宗教的な厳かな雰囲気で坐禅を行いたいときは、禅寺で坐禅体験ができます。坐禅ができる禅寺は全国にあり、ホームページから申し込むことができます。マインドフルネスを体験できる講座などもホームページで探すことができます。興味のある方は、自分に合うスタイルを探してみてはいかがでしょうか。

(付録)坐禅の違い:「只管打座」の曹洞宗と「看話禅」の臨済宗

栄西の臨済宗の坐禅は曹洞宗とは違うのでしょうか?両者の違いを比較してみましょう。

「何も考えない」曹洞宗、「公案について考える」臨済宗

曹洞宗・臨済宗とも、坐禅が重要な修行であることは同じですが、何も考えずに坐禅する曹洞宗に対して、公案について考えながら坐禅する曹洞宗という、やり方の違いがあります。

その違いは、坐禅に対する考え方の違いからきており、道元は坐禅の姿そのものが悟りの姿だと考えていたところにあります。つまり、只管打坐とは、既に悟った状態にいることであり、公案を考える看話禅は、悟りに向かう姿であるといえます。

栄西の臨済宗は「看話禅」

鎌倉時代に興った新仏教の禅宗には、道元の曹洞宗の他に栄西の臨済宗があります。栄西は中国の臨済宗に学び、日本の臨済宗の開祖となりました。

臨済宗の禅風は、禅問答ともいわれる公案を解いて悟りに至るとするもので、曹洞宗の「黙照禅(もくしょうぜん)」に対して「看話禅(かんなぜん)」と呼ばれます。

『正法眼蔵随聞記』において、弟子が「公案を学ぶと得るところがあるが、坐禅ではそれほど得るものがない、それでも坐禅をした方がよいか」と尋ねると、道元は、「公案は仏祖の道に遠ざかる因縁であり、それで悟りを開くのはやはり坐禅の因縁によるものである」と答えています。この言葉は公案を否定するものではなく、坐禅こそが悟りであることを述べたものです。

まとめ

「只管打坐」とは、道元が広めた、何も考えずにただひたすら坐禅するという修行の方法です。その根底には、坐禅する姿こそが悟りを得た仏の姿であるという考え方があります。道元は、その境地を「身心脱落」と呼び、自己を忘れることが仏道だと説きました。

マインドフルネス瞑想は仏教の思想を取り入れながら、宗教色を排除した瞑想エクササイズとも呼べるものです。自己という雑念を取り払い、本当の自分の能力向上を目指すという意味では、瞑想や坐禅は同じ目的で行われているといえます。

■参考記事

「禅」とは何か?教えの意味や悟りも解説!禅宗の違いも説明