「禅」とは何か?教えの意味や悟りも解説!禅宗の違いも説明

瞑想やヨガの人気ととももに「禅」に関心を寄せる人が増えています。最近は思想の側面を除いた英語の「ZEN」としても人気が高く、企業研修に取り入れる企業も増えています。しかし「禅」について、その思想や概要を説明できる人は少ないのではないでしょうか?

ここでは、「禅」の起源などの概要とともに、日本における「禅宗」の概要もあわせて解説します。

「禅」とは何か?

「禅」とは禅那の略語

「禅」とは、もともとサンスクリット語のディヤーナを中国語に音写した「禅那(ぜんな)」の略語です。サンスクリット語とは、梵語とも呼ばれる古代インド語のことです。

また「禅」というときは「座禅」または「禅宗」をさします。

「禅」の始祖はインド人の「菩提達磨」

「禅」の起源は古代中国にさかのぼります。禅の始祖は「菩提達磨(ぼだいだるま)」というインド人の仏教僧です。サンスクリット語のボーディダルマを音写したのが菩提達磨という名前で、「ダルマ」は「法」を表す言葉です。

菩提達磨は5世紀から6世紀の人で、中国に渡り釈迦の弟子として「禅那(ディヤーナ)」を体系化して広めました。達磨によって伝えられた禅はやがて臨済宗や曹洞宗などの禅宗五家に分かれ、日本にも伝わり、大きな影響を及ぼしました。日本の禅についてはのちほど詳しく説明します。

また日本で縁起物として親しまれている「福だるま」は達磨が座禅を続けて手足が無くなってしまったという伝説に由来しています。

さらに、禅は座禅を組んで行う瞑想(禅定)とも近い仏教の修行方法であり、紀元前500年頃の釈迦の時代にはすでに禅定を行っていました。釈迦が菩提樹の下で禅定を行っている時に悟りを開いたことは仏教でよく知られた逸話です。また釈迦の言行をまとめた『ダンマパダ』という原始仏教経典には座禅瞑想(禅定)を行う釈迦や弟子の様子が著されています。

達磨は釈迦の教えを伝える弟子であり、その二十八代目の弟子となります。

■参考記事
「インド哲学」とは?「釈迦」と「原始仏教」も解説!本も紹介

「禅」の教えの基本は「不立文字」

「禅」の教えの根本にあるのは「不立文字(ふりゅうもんじ)」という仏教の思想です。文字や言葉による教えとは別に、修行体験によって教えを伝えることが禅の神髄であるという意味です。

「不立文字」は達磨大師が説いた「四聖句」のうちのひとつでもあり、これらはつながりあって悟りへ達すると説かれます。

【四聖句】

  • 「不立文字」(ふりゅうもんじ):釈迦の教えは修行により体得することが重要だとする思想。
  • 「教外別伝」(きょうげべつでん):釈迦の教えは心から心へと伝達されるとする考え方。
  • 「直指人心」(じきしにんしん):「人の心を指し示す」という意味で、坐禅をして、自分の心を見つめる修行のこと。
  • 「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ):「直指人心」でおのれの心をしっかり見つめ、自分の内にある仏性を見つめる修行のこと。

「禅」の目的は「悟り」を開くこと

「不立文字」の修行によって禅が目指すのは「悟り」を開くことです。悟りとは、自分の内にある仏性に気づき、身も心も一切の執着から離れることです。道元はその境地を「心身脱落」と表現しました。

禅宗では、悟りに至る修行方法として、座禅や公案に加え、生活する上での掃除や料理などの作業を指す「作務(さむ)」があります。

日本の「禅」の歩みとは?

「禅」の思想が日本に入ったのは飛鳥時代だといわれていますが、広がりを見せるのは鎌倉時代に入ってからです。鎌倉時代に日本に禅を広めた「栄西」と「道元」について、次に説明します。

栄西が伝えた「看話禅」の「臨済宗」

「栄西(えいさい)」(1141~1215)は宋に渡り、南宋禅の教えを持ち帰り、「臨済宗」を開きました。栄西は幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めました。

「臨済宗」の特徴は、「公案」を用いて考えながら座る「看話禅(かんわぜん)」です。「公案」とは、悟りを得るための修行として、師から与えらえる問題のことをいいます。

■参考記事
「栄西」と茶の関係は?禅宗や臨済宗と著書「喫茶養生記」も解説

道元が伝えた「只管打坐」の「曹洞宗」

「道元(どうげん)」(1200~1253)も宋に渡り、中国曹洞禅の教えを持ち帰り、「曹洞宗」を開きます。曹洞宗は道元の死後も拡大し続け、天台宗や真言宗の寺を吸収しながら全国へ拡大してゆきました。

「曹洞宗」の特徴は「只管打坐(しかんたざ)」という、何も目的を持たず、何も考えず、ただ座るという修行にあります。

■参考記事
「道元」の思想とは?著書「正法眼蔵」や名言と言葉も紹介

禅宗の有名な僧の名前とは?

禅宗の僧には逸話などを伴う著名な僧が大勢います。最後に、その中でも特に有名な僧を紹介します。

一休宗純

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は「とんちの一休さん」のモデルとなった室町時代の臨済宗の禅僧です。自らを「狂雲子(きょううんし)」と名乗り、狂歌や詩、書画を楽しむ風狂の生活を送りました。

彼の奇抜な言動は、禅宗の教義における風狂(ふうきょう)の精神の表れでもあり、同時に当時の仏教の権威や形骸化を風刺したものでもありました。その精神は大衆に受け入れられ、一休の死後の江戸時代になって「一休のとんち話」などの本も出され、親しまれました。

※「風狂」とは、中国の禅宗において重要視される思想の用語で、仏教本来の戒律などを逸した行動について、その悟りの境地を現したものとして肯定的に評価する言葉です。禅宗とともに中国から日本に伝わりました。

■参考記事
「一休宗純」とは?説話を生んだ生涯と漢詩・著書から名言を紹介

沢庵宗彭

沢庵宗彭(たくあん そうほう)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、当時を代表する禅僧として知られています。また、禅の教えを身近なものに例えて親しみやすく教授する話が人気をよび、多くの人々から慕われました。しかし沢庵は生涯弟子をとらず、また名利も求めない無欲の禅風を貫きました。

「たくあん漬け」は沢庵が作ったことが由来です。

白隠慧鶴

白隠慧鶴(はくいんえかく)は江戸中期の臨済宗の禅僧です。栄西が伝えた臨済宗の系譜は早くに途絶えましたが、白隠の体系化した臨済宗が現在に続いているため、「臨済宗中興の祖」といわれます。白隠は禅の教えを大衆にもわかりやすく説き、「内観」という瞑想法を紹介する『夜船閑話(やせんかんわ)』など多くの書物を著しました。

白隠の内観法とは、あおむけに寝て、丹田から両足に意識を置くための公案を唱えるというもので、現代の自律訓練法に似ているとされています。

良寛

良寛(りょうかん)は「良寛さん」として親しまれた江戸時代後期の曹洞宗の僧侶です。優れた詩や書を残した詩人であり、書家でもありました。道元を尊敬していた良寛は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を座右の書とし、また道元のように寺を持たず、清貧を貫きました。

■参考記事
「良寛」の書や名言とは?逸話や辞世の句などの俳句も解説

まとめ

日本人に身近な「禅」は、あの「だるまさん」で知られる達磨が中国で体系化した、仏教の修行の一つです。座禅を組んで瞑想する修行は二千五百年前の釈迦の時代から行われていました。時を超えて現代の日本では、一般の人も気軽に参加できる座禅会が全国各地の寺で開催されています。

また、「マインドフルネス」という仏教の瞑想法に由来した瞑想法がアメリカで生まれ、日本にも広がりを見せています。「マインドフルネス」の目的は「悟りを得ること」ではないため、「禅」ではなく、「ZEN」に近いものだといえます。