「メディチ家」の繁栄とともにフィレンツェにルネサンスが花開きました。フィレンツェにはメディチ家の紋章と足跡があふれています。メディチ家とはどのような一族なのでしょうか?
この記事では、メディチ家の歴史と系譜や、紋章の意味を解説します。あわせて、メディチ家ゆかりの芸術家の作品や、ライバルのパッツィ家との事件も紹介します。
「メディチ家」とは?
「メディチ家」とはルネサンスの芸術家を支えた”最大のパトロン”
「メディチ家」とは、フィレンツェにおけるルネサンス芸術を支えた最大のパトロンです。銀行家・実業家・政治家としてフレンツェを実質的に支配するかたわら、豊富な財力で多くの芸術家たちを支援しました。メディチ家は、ルネサンス文化の興隆に欠かせない存在です。
「メディチ家」がフィレンツェの歴史に登場するのは13世紀で、それ以前の記録は残っていませんが、医師か医薬業、または金融業を営んでいたとされます。ルネサンスの時代にメディチ家は黄金の時代を迎え、18世紀までその歴史は続きました。
ルネサンスとは、14世紀のイタリア・フィレンツェに興った美術運動です。神を中心とする世界観から、古代ギリシャ・ローマの人間至上主義に回帰し、人間の見方の再生を目指しました。
「メディチ家」は現在存在していない
「メディチ家は現在どうなったのか?」「子孫はいるのか?」と気になる方も多いでしょう。血筋に関しては、18世紀のアンナ・マリア・ルイーザを最後に途絶えています。よって現在はメディチ家は存在していません。
「メディチ家」の家系図と歴史とは?
家系図は「ジョヴァンニ・ディ・ビッチ」から始まる
フィレンツェの歴史に名を刻むメディチ家の当主は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年~1429年)から始まります。ジョバンニには二人の息子がおり、長男が「コジモ・イル・ヴェッキオ」(1389年~1464年)、次男が「ロレンツォ・イル・ヴェッキオ」です。
メディチ家の血脈は、兄脈と弟脈に分かれてつながってゆきます。兄コジモの家系は16世紀に途絶えますが、弟ロレンツォが統治を受け継ぎました。ルネサンスの芸術家たちの支援を、最も盛大に行ったのがコジモの孫ロレンツォ・イル・マニフィコです。
当主ロレンツォの時代が「フィレンツェ・ルネサンスの黄金期」
長男コジモは、大富豪となり、政治の実権も握りました。その息子であるピエロ・イル・ゴットーゾ(1416年~1469年)は、メディチ家の隆盛を維持するとともに、パトロンとして、ドナテッロ、フィリッポ・リッピ、ボッティチェッリらを支援しました。
ピエロの息子でコジモの孫となる「ロレンツォ・イル・マニフィコ(本名ロレンツォ・デ・メディチ)」(1449年~1492年)は、20歳でメディチ家当主となります。多面的に優れた能力を持ち、芸術への高い審美眼も備え、圧倒的な経済力で芸術を保護したロレンツォは「偉大なる豪華王」と呼ばれました。ロレンツォの時代がフィレンツェにおけるルネサンスの最盛期でした。
ロレンツォは、ボッティチェリやミケランジェロなど多くの才能ある芸術家たちを保護し、自身が設立した彫刻学校では、少年だったミケランジェロを学ばせ、自邸に住まわせて支援しました。この時代に描かれたのがサンドロ・ボッティチェッリの傑作『プリマヴェーラ』や『ヴィーナスの誕生』です。
ライバルによる「パッツィ家の陰謀」事件が起こる
メディチ家の権力に憎悪していた、メディチのライバルであるパッツィ家が企てた「パッツィ家の陰謀」と呼ばれるドラマが語り継がれています。パッツィ家は、ロレンツォとその弟のジュリアーノ・デ・メディチの暗殺を企てました。この計画にはメディチ家と対立していたローマ教皇シクストゥス四世も加担していました。
1487年4月に計画は実行され、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のミサの最中に二人は襲われます。ジュリアーノは即死、ロレンツォは傷を負いながらも聖具室に逃れて無事でした。
この事件により、フランチェスコ・デ・パッツィらの首謀者たちは逮捕され、12月には絞首刑となって遺体が警察署の窓辺に吊るされました。レオナルド・ダ・ヴィンチはこのときの公開処刑の様子をスケッチに残しています。
パッツィ家は一家断絶となりましたが、メディチ家はロレンツォがローマ教皇や周辺諸国と和平外交を結ぶなど手腕を発揮し、最も繁栄する時代を迎えました。
ロレンツォの息子(教皇レオ10世)は盛期ルネサンスの繁栄をもたらした
ロレンツォの没後は政治的な混乱が起こり、メディチ家はフィレンツェから離れます。息子のジョバンニは「ローマ教皇レオ10世」となり、ローマにおけるルネサンスの最盛期をもたらしました。レオ10世は、ラファエロやミケランジェロを任命し、サン・ピエトロ大聖堂の改修を進めました。
15世紀末~16世紀初頭には、ルネサンスの三大巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが出そろい、華々しく活躍しました。
しかしレオ10世は、芸術を愛好するあまり財政をひっ迫させます。大聖堂建設の名目で免罪符の販売を認めたことから、1517年から始まるマルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作りました。宗教改革を発端として、イタリアは宗教対立の争いの時代に入り、ルネサンスの終わりが始まります。
さらに、1527年には神聖ローマ皇帝カール5世がローマ略奪を行い、ローマが壊滅状態となります。教会は破壊され、文化財は奪われ、ローマに集まっていた文化人や芸術家は殺されたり、他の都市に逃げたりしました。ローマ略奪をきっかけとして、イタリア・ルネサンスは終焉しました。
また、1530年にはフィレンツェは共和制を終え、メディチ家はトスカーナ公国の大公となってトスカーナ地方を支配する時代に入りました。
「メディチ家」の家紋とは?
ピッティ宮殿内の壁画に描かれたメディチ家の紋章
(出典:Wikimedia Commons)
「メディチ家」の紋章にはバリエーションがある
フィレンツェの街を歩くと、球が配されたメディチ家の紋章をいたるところで目にします。室内や絵画などにも紋章は記されました。
紋章の基本図像は、オーバル型の台座に数個の球が配されているもので、時代とともに8個から6個に数が変化しました。当主ごとの個人紋章もあるため、デザインにはさまざまなバリエーションがあります。
紋章の図像の球は「丸薬」を表す
「メディチ」には、「医師」という意味があるため、先祖は医師か薬問屋であったのではないかともされており、メディチ家の紋章に配された赤い球は、丸薬あるいは血を吸い出すために用いたガラス玉を表しているとされます。
「メディチ家」ゆかりの作品とは?
「ボッティチェッリ」が描いた『プリマヴェーラ』(1482年頃)
『プリマヴェーラ』ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
(出典:Wikimedia Commons User:Aavindraa)
サンドロ・ボッティチェッリ(1445年~1510年)は、初期ルネサンスを代表する画家です。メディチ家の庇護を受けて、ルネサンスを代表する傑作を残しました。
特に『プリマヴェーラ』や『ヴィーナスの誕生』が有名ですが、どちらもメディチ家のために描かれたものです。『プリマヴェーラ』はメディチ家の婚礼の記念として制作され、花の咲き乱れる春の悦びが描かれています。華やかな時代の空気も伝わるような作品です。
ラファエロによる肖像画『レオ10世の肖像』(1512年頃)
ローマ教皇『レオ10世の肖像』 ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
(出典:Wikimedia Commons)
ラファエロ・サンティ(1483年~1520年)は、盛期ルネサンスを代表する画家で、ミケランジェロのライバルともされていました。ヴァチカン宮殿の通称ラファエロの間の壁画の制作などに時間を費やしましたが、肖像画も多く手がけました。
ラファエロの主要なパトロンだったレオ10世の肖像画がよく知られています。レオ10世はまた、『ラファエロのカルトン』と呼ばれる、システィーナ礼拝堂に飾られたタペストリの下絵をラファエロに描かせています。
ミケランジェロの『システィーナ礼拝堂天井画』と並んでルネサンス期の芸術に大きな影響を及ぼしました。
ミケランジェロによる「メディチ家礼拝堂」の「新聖具室」と「彫刻」(1531年~1534年)
新聖具室内部の19世紀に撮影された写真
(出典:Wikimedia Commons User:Sailko)
メディチ家礼拝堂は、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に付属しています。礼拝堂を構成する「新聖具室」はミケランジェロが設計し、ミケランジェロ建築の代表作です。さらに、ヌムール公ジュリアーノ(1479年~1516年:ロレンツォ・イル・マニフィコの息子)と、ウルビーノ公ロレンツォ(1492年~1519年:ロレンツォ・イル・マニフィコの孫)の霊廟彫刻も手がけました。現在見学はできません。
当初予定されていた、ロレンツォ・イル・マニフィコと、弟ジュリアーノの霊廟の制作は着手されることなく、ミケランジェロはローマに移り、システィーナ礼拝堂の壁画『最後の審判』を手掛けることになります。
メディチが命じた「ミケランジェロ」の壁画『最後の審判』(1535年~1541年)
ミケランジェロの『最後の審判』はルネサンスを代表する傑作です。ローマ教皇クレメンス7世となったジュリオ・デ・メディチ( 1478年~1534年)は、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の壁画『最後の審判』を依頼しました。ジュリオは、「パッツィ家の陰謀」で殺害されたジュリアーノの遺児です。
実際にミケランジェロが制作に着手したのは、次代の教皇パウルス3世が改めて制作を命じた、1535年からとなりました。この時期は、ローマ略奪が起こったあとの混乱の時期でしたが、ミケランジェロはローマに残り、制作を続けました。
『最後の審判』は、ミケランジェロに代表される盛期ルネサンス様式から、次の時代のマニエリスム様式への転換点となりました。
■参考記事「最後の審判」
『最後の審判』とは?聖書箇所を解説!ミケランジェロの鑑賞も
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と「メディチ家」のつながりとは?
「レオナルド」と「メディチ家」のつながりは薄かった
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロは、ルネサンスの三大巨匠と称されますが、レオナルドについては、メディチ家とのつながりが薄かったことがわかっています。
レオナルドが仕えたミラノ公に、レオナルドを推挙したのはロレンツォであること、レオナルドがヌムール公ジュリアーノに仕えたとの記録はありますが、メディチ家がレオナルドに命じた仕事としての記録ははっきりしていません。
レオナルドに教養がないからと、ロレンツォがレオナルドを評価していなかったとする研究者もいます。レオナルドの手稿には「メディチが私を創り、そしてメディチが私を台無しにした」とのメモが残されていますが、その意味はわかっていません。
まとめ
メディチ家は、イタリア・ルネサンスの興隆を支えた、フィレンツェの実業家・政治家の一族です。500年の歴史ののち、18世紀に血脈は途絶えますが、メディチ家ゆかりの美術品は、散逸することなく「ウフィツィ美術館」に収蔵されました。現在もそれらの傑作の数々を鑑賞することができます。
美術館1階の回廊には、フレンツェの生んだ偉人の彫像が設置されており、豪華王ロレンツォをはじめとする、メディチ家の人々の彫像も置かれています。