スペインの巨匠「ゴヤ」は近代絵画の先駆者として、世界の画家に大きな影響を与えました。またベラスケスとともに、スペイン最大の画家として称えられています。この記事では、ゴヤの波乱に富んだ生涯と、代表作品である『裸のマハ』や『我が子を食らうサトゥルヌス』などを解説します。
「ゴヤ」とは?
『ゴヤの肖像画』(1826年、ヴィセンテ・ロペス・イ・ポルターニャ画)
(出典:Wikimedia Commons)
「フランシスコ・デ・ゴヤ」とはスペイン最大の画家
フランシスコ・デ・ゴヤ(1746年~1828年)とは、スペインを代表する巨匠です。18世紀半ばから19世紀半ばの動乱のスペインを生きた画家です。ゴヤの前半生は、華やかな王政のロココの時代であり、後半生は絶対王政が崩壊する争乱の時代でした。
ゴヤは宮廷画家として地位を確立しましたが、晩年は死をみつめた「黒い絵」を描き、スペインの光と美だけでなく、影と闇や醜さも描きました。
長い下積み時代を経て43歳で宮廷画家に昇進した
ゴヤはスペイン北東部の寒村フエンデトードスの鍍金師(めっきし)である父のもとに生まれました。14歳の時、サラゴーサの画家ホセ・ルサンに師事してデッサンを学び、その後ローマに出てイタリア・ルネサンスの傑作に触れ、フレスコ画の技法を修得します。
1775年、29歳のとき、ゴヤは期待と野心を秘めてマドリードに移住します。王立タペストリー工場でタペストリーのための下絵書きの仕事を十数年間続けながら、宮廷での地位確立を画策します。
貴族のパトロンを得て描いた肖像画が認められ、40歳の時、カルロス3世の王付き画家に任命されます。そしてカルロス4世の即位とともに、ついに43歳で宮廷画家に昇進し、画家としての最高の地位と確かな収入を得ました。
46歳で聴覚を失ってから独自の世界を構築する
ゴヤは生涯のうちに、生死をさまようような重病を3回経験しています。31歳のときに最初の重病にかかり、1792年、46歳の時に襲った2度目の病気では麻痺と激しい頭痛に襲われ、頭痛が治ったときは聴覚が完全に失われました。聴覚を喪失してからは、それまでとは作風が異なる挑戦的な絵画の傑作を多く生み出すことになります。
また3度目の重い病は1819年の73歳の時に訪れ、「聾者の家」を購入した年末でした。「聾者の家」の壁には、がらりと作風が変わった「黒い絵」の連作が描かれます。どの病気も病名は解明されていませんが、鉛中毒と梅毒であったという説が有力です。
ゴヤは宮廷画家として地位を確立しましたが、音を失って以降に自由制作された絵画がのちにモダン・アートの先駆けとして高く評価され、モネやピカソをはじめとする多くの画家達に影響を与えました。
74歳から「死」をテーマとした「黒い絵」の連作を手掛ける
1819年にゴヤは「聾者の家(ろうしゃのいえ)」と呼ばれていた家を購入しました。1820年、74歳になっていたゴヤは、「聾者の家」の食堂と応接間の壁に、14枚の「黒い絵」と呼ばれる作品群に着手します。
このときのゴヤは、耳が聞こえなくなって30年がたち、3度目の大病からかろうじて生き延びたものの、目の前にあるのは死後の世界の幻視でした。「黒い絵」は黒を中心とした暗い絵の連作で、その中でも古今東西の画家によって描かれた最も恐ろしい絵の代表である『我が子を食らうサトゥルヌス』が有名です。
フランスに亡命して82歳で死去
フェルナンド7世のもとでの圧政と自由主義者への弾圧を避け、1824年、78歳のときにゴヤはフランスに亡命します。4年ほどの最晩年の時期には、家族とともに穏やかな日々を過ごし、最後まで絵を描き続けました。その作風には暴力的なものは姿を消し、繊細な肖像画や自由な素描を残しました。
「ゴヤ」の代表作品を紹介
『裸のマハ』(1795年~1800年)・『着衣のマハ』(1800年~1807年頃)
『裸のマハ』プラド美術館(マドリード)
(出典:Wikimedia Commons)
ゴヤの自由作品のピークとされるのが『裸のマハ』です。当時のスペイン宰相マニュエル・ゴドイの注文によって描かれ、その愛人がモデルと言われています。厳格なカトリックの国であった当時のスペインでは裸体画が描かれることはなく、ゴドイの邸宅に隠され、来客に秘密のうちに公開されていました。
「横たわる裸婦」の絵画としては、16世紀のティツィアーノや17世紀のレンブラントが神話の登場人物としての女性像を描いた先例はありますが、ゴヤの描いた女性は現実の女性であり、またその挑発的でみせつけようとするようなポーズなどが問題となりました。
1812年、カトリック教会によりゴヤは異端審問にかけられましたが、沈黙を守り、証拠不十分で無罪となりました。
『着衣のマハ』プラド美術館(マドリード)
(出典:Wikimedia Commons User:Aavindraa)
『着衣のマハ』は、『裸のマハ』が描かれたあとに制作されました。注文主が『裸のマハ』を隠すために、あるいは並べて楽しむために描かれたとされています。
ゴドイが失脚したあとは、二つの絵画は1900年まで王立サン・フェルナンド王立アカデミーに隠されていましたが、1901年からプラド美術館に並べて展示されています。なお、「マハ」とは、マドリードの小粋な下町娘を指す言葉です。
『カルロス4世の家族』(1800~1801年)
『カルロス4世の家族』プラド美術館(マドリード)
(出典:Wikimedia Commons User:Lomita)
宮廷画家として13人の王族を描いた『カルロス4世の家族』は宮廷肖像画の傑作とされます。14人目の人物として、左端に画家自身が描かれています。中央にはカルロス4世と王妃マリア・ルイーサ、カルロス4世の後ろにいるのは王の弟、左から3番目の老婆が王の姉です。王族の腐敗と愚かさを、はからずもゴヤが確かな技術で写実してしまったと評されています。
『我が子を食らうサトゥルヌス』
『我が子を食らうサトゥルヌス』プラド美術館(マドリード)
(出典:Wikimedia Commons User:Alonso de Mendoza)
「黒い絵」の中の一つとして描かれた『我が子を食らうサトゥルヌス』は、ローマ神話に登場するサトゥルヌスの伝承を主題としています。サトゥルヌスはギリシャ神話のクロノスに相当する神で、父を追い落として王座についた神は、自分の子どもに同じことをされるのを怖れ、子どもを次々に丸呑みします。
サトゥルヌスが子どもをかじっている恐ろしい姿は、17世紀にルーベンスが描いており、マドリードの王宮に飾られていました。その絵はゴヤも目にしていました。
「死」をモチーフとした「黒い絵」シリーズは、スペインにおける最後の作品となりました。
まとめ
ゴヤは82年の波乱万丈な生涯の中で革命的な多くの作品を残しました。神話の世界にとらわれていたルネサンス様式を脱して人間の日常世界に視点を移し、市井の人々や宮廷の人間模様を描きました。ゴヤの新奇性は、ピカソにつながる近代絵画への先駆けとなりました。
また、「黒い絵」の連作などで奇怪で謎に満ちた作風を生み出したゴヤは、効果的な「黒」の使い方にも定評があり、「黒の画家」と呼ばれることもあります。
徳島県鳴門市にある「大塚国際美術館」では、「聾者の家」に描かれていた配置そのままに、ゴヤの「黒い絵」14枚を原寸大の陶板画で再現しています。