「安徳天皇」とは?「誰と入水したのか」や「生きていた伝説」も

安徳天皇とは、平安末期の天皇です。死因の痛ましさや政治利用され続けた人生から、悲劇の天皇として有名です。歴史ドラマで、幼くかわいい安徳天皇が祖母と入水する場面を見て、驚いた人もいるかもしれません。安徳天皇が何歳で亡くなったのかや、入水の詳細を解説します。生存説などの伝説も紹介しましょう。

「安徳天皇」の概要

安徳天皇とは平安末期の悲劇の天皇

安徳(あんとく)天皇は平安末期の1178年12月22日(当時の暦では治承2.11.12)に生まれました。名前は「言仁(ときひと)」です。

亡くなったのは1185年4月25日(文治1年3月24日)、わずか6歳4ヶ月(数え年で8歳)の短い人生でした。入水しているため、死因は溺死になるでしょう。

数え年とは、当時の年齢の数え方です。生まれた時を1歳とし、翌年から1月1日を迎えるごとに年齢が増えます。

安徳天皇は平清盛に利用された

安徳天皇の父は高倉天皇、母は平徳子です。徳子は当時の権力者、平清盛の娘でした。
当時は権力者の縁者になるために子を結婚させることが頻繁に行われていました。特に天皇と娘が結婚した場合、子どもが次の天皇になれば「天皇の祖父」として政治に干渉する力が手に入ります。

高倉天皇は10代の青年でしたが、清盛は孫を強引に即位させます。安徳天皇はまだ1歳(数え年で3歳)でしたが、政治の道具として利用されてしまいました。

「安徳天皇」はどこで誰と入水したのか?

安徳天皇は源氏との争いに敗れて、壇ノ浦の海へ入水

清盛の死後、平家を打倒する動きが各地で起きました。強引に権力を高めていた平家は、周囲に恨まれていたのです。安徳天皇は清盛の息子たちに連れられ京都を脱出し、西へと逃亡しました。

壇之浦の海戦で源氏に追い詰められた安徳天皇は、祖母や官女たちとともに壇之浦の海へ入水します。源氏に投降しなかった理由は不明です。「天皇」ではなく「清盛の孫」として、憎しみの対象になることを恐れたのかもしれません。

抱いて入水したのは「祖母」か「官女」

安徳天皇を抱いて、ともに入水した人物は2つの記録があります。有名なのは、軍記物語「平家物語」の記述です。こちらでは、安徳天皇は祖母の二位尼(にいのあま)に抱かれていました。二位尼は清盛の妻です。

鎌倉幕府前半を扱う歴史書「吾妻鏡」では、官女(宮中に仕える女性)の按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)が抱いたと書かれています。歴史書の方が信ぴょう性が高いと思う人もいるかもしれません。しかし、鎌倉幕府の権力者・北条家が脚色した説もあるため、事実と断言はできません。

三種の神器のうち宝剣が失われる

安徳天皇たちは、三種の神器を持って入水しました。そのうち、剣だけは回収できず、失われてしまったという説が有力視されています。

三種の神器とは、皇位の証として受け継ぐ宝物のことです。剣、鏡、勾玉の3つで、このうち勾玉以外は実物ではなく形代(神霊が憑依する特別なレプリカ)を継承します。実物はそれぞれ別の神社にご神体として奉斎されています。現在の剣は、神社よりあらたに献上された形代です。

「安徳天皇」の死後はどうなった?

遺体の行方・墓の場所は山口県が有力

安徳天皇の入水後、遺体がどこで発見されたかは諸説あり明確になっていません。有名な説は、山口県下関市で漁師が発見したというものです。宮内庁が指定する陵(天皇の墓)も下関市にあります。

他にも各地に安徳天皇のものと伝えられる陵があり、いくつかは宮内庁が「特定はできないものの可能性がある」とする陵墓参考地に指定しています。

水と安産の神として各地の神社に祀られる

死後の安徳天皇は、水の神・安産の神として各地の神社に祀られています。安徳天皇とともに入水したものの源氏に救助・捕獲された按察使局伊勢が、安徳天皇と母、祖母を弔ったのがはじまりだと言われています。

「安徳天皇」の伝説・伝承

生存し子孫を残した伝説がある

安徳天皇が落ち延びたという伝説は各地に残っています。例えば、長崎県にある対馬では、近世まで安徳天皇の子孫が対馬を治めていた伝説があります。

女性だったと推測できる描写もあった

安徳天皇には女性説があり、女性説を採用する歌舞伎や文芸作品もあります。平家物語に「出生時の儀式を女児向けの手順で行ったあと、男児向けにやり直した」という記述があることが、女性説発祥の理由のようです。また、別の書物では「竜王の娘」と例えられています。

他にも「男性なら、神になったあとの御利益が『安産』なのは違和感がある」「肖像画が男児に見えない」という意見もあります。また、壇之浦で投降せず死を選んだのも「性別を隠さなければならなかったから」と考える人もいるようです。

源頼朝の死因になった伝承もある

安徳天皇には「源頼朝の死因になった」という伝承もあります。源頼朝とは、平家と戦った源氏の棟梁です。頼朝は平清盛を父の仇と憎んでいました。

この説では、頼朝は安徳天皇や粛清した弟(源義経)の亡霊を見たショックで病になったことが死因だとされます。(頼朝は信心深かったため、罪悪感から亡霊の幻覚を見た可能性もあります)頼朝の死因は諸説ありますが、どの説でも亡くなったのは1199年です。

まとめ

安徳天皇は短い人生を大人の都合に振り回され、わずか6歳で入水した悲劇の天皇です。平穏無事に過ごしてほしいという人々の優しさが、各地に生存説を生んだのかもしれません。