後白河天皇とは、平安末期の天皇です。長く院政を行ったため、「上皇」や「法皇」と呼ぶ方が馴染み深い人も多いでしょう。源頼朝に「日本一の大天狗」と揶揄されたことから「最強の天皇?」と思う人もいるかもしれません。後白河天皇が何をした人物なのか、有名なエピソードとあわせて分かりやすく紹介します。
後白河天皇とは何をした人?
後白河天皇とは第77代天皇
後白河(ごしらかわ)天皇とは、第77代天皇です。平安末期の人物で、誕生したのは1127年10月18日、崩御は1192年4月26日になります。名は雅仁(まさひと)です。
在位期間は短く、1155年から1158年です。ただし、退位した後も政治に関わり続けました。崩御まで実権を持ち続けたことから、在位期間を1192年までとする考えもあります。また、仏教の保護に積極的でしたが、同時に寺や僧兵を政治利用していました。
「後白河上皇」「後白河法皇」は同一人物
後白河天皇は「上皇」「法皇」にもなりました。「上皇」は生前譲位をした前の天皇を意味します。「法皇」は、上皇になった後に出家した際に使われます。同一人物の敬称が変わっているだけのため、勘違いしないようにしましょう。
後白河「天皇」よりも後白河「法皇」の方がよく使われる敬称です。これは「天皇としての在位期間が3年しかない」ことと、「有名な源平合戦~鎌倉幕府成立の時期にはすでに法皇だった」だめだと考えられます。しかし、この記事では分かりやすくするため、年代を問わず「後白河天皇」と表記します。
長く院政を行い朝廷の権力を守った
後白河天皇は生前退位後、約30年の長い間、院政を行い続けました。院政とは、上皇や法皇が実験を握って政治を行うことです。
院政を最初に行ったのは、第72天皇「白河上皇」です。後白河天皇と名前が似ていますがこちらは別人になります。白河上皇が院政を始めた1086年から、鎌倉幕府が正式に成立する1185年頃までは「院政時代」とも呼びます。
後白河天皇は幽閉の危機を乗り越えた
後白河天皇が生きた時代は権力争いが激しく、クーデターも頻繁に起きていました。後白河天皇が幽閉され、権力を奪われかけたことも何度もあります。しかし、その度にさまざまな武士を後ろ盾にし、政治の中心に戻りました。
後白河天皇の対立者
兄の崇徳天皇を打ち破り島流しにする
後白河天皇と崇徳(すとく)天皇は、後白河天皇が即位した翌年1156年の「保元の乱」で争いました。崇徳天皇は後白河天皇の兄で、敵対したきっかけは父親の鳥羽天皇です。
院政を行っていた鳥羽上皇は、寵愛する女性の子を天皇にするため、崇徳天皇を退位させました。その子が若いうちに急死したため、崇徳上皇は自分の子を次の天皇に希望します。しかし、鳥羽上皇はそれを許さず、後白河天皇を即位させたのです。
後白河天皇は、崇徳上皇のクーデターである保元の乱に勝利し、実の兄に島流しの罰を与えました。
平清盛とは最初は協力しあっていた
後白河天皇と平清盛は、最初は協力関係にありました。1159年に起きた「平治の乱」で源義朝(頼朝の父)に幽閉された際も、助けたのは平清盛です。助力の見返りに平清盛を出世させ、お互いに権力を増していきました。
しかし、平家の力が強くなり過ぎたことで対立関係になります。後白河天皇は平家を討とうとして失敗し、清盛に幽閉されてしまいます。清盛の死後、後白河天皇を助けたのは源氏でした。
「源平合戦」後は源頼朝と対立
源氏に助けられた後白河天皇は院政を再開し、源氏の棟梁・源頼朝を倒す命令を義経(頼朝の弟)に出しました。「兄弟で競わせて、権力集中を防ぐ策略」だったと考えられています。
思惑は外れ、義経はすぐ逃走しました。そこで、今度は頼朝に義経を倒すよう命じましたが、それは失策だったかもしれません。「効率良く義経を探す」を名目に、各地を頼朝の部下が治める(守護・地頭の設置)ことになったためです。
ちなみに、現在では「守護・地頭の設置」が認められた1185年が鎌倉幕府の実質的な成立だと考えられています。かつては、征夷大将軍任命の1192年とされていました。
後白河天皇のエピソード
政治手腕を「大天狗」と揶揄される
後白河天皇の有名なエピソードは、源頼朝に「日本国第一の大天狗」と揶揄されたことです。「天狗(てんぐ)」とは山の妖怪で、善悪両面があることが特徴です。人々の守護者になる天狗もいますが、ここでは魔王のような存在として使われています。
後白河天皇は、頼朝討伐を命じた理由を「魔王に魅入られたせいで、義経の脅迫に従ってしまった」と言い訳しました。それに対して頼朝は、後白河天皇を「大天狗」と揶揄します。魔王のせいにして被害者としてふるまう後白河天皇こそが、魔王のような「大天狗」だと思ったのでしょう。
後白河天皇は今様(流行歌)に熱中
後白河天皇には「今様(いまよう)」に熱中する文化人としての一面もあります。今様とは「今様歌」の略で、平安中期から鎌倉時代にかけて流行しました。一日中歌って喉を痛めたエピソードがある程、今様を気に入っていました。また、今様を後世に残そうと『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という歌集を編集しています。
まとめ
後白河天皇は、協力者でも利害が一致しなくなれば容赦なく敵対する姿から「優秀だが冷酷な人物」と思われがちです。しかし、そこまでの人物だったからこそ、台頭する武士から天皇家や貴族の立場を守ることができたのかもしれません。