「斉明天皇」とは第37代天皇で女帝です。皇極天皇の重祚(じゅうそ)と言われているのですが、どういう意味なのでしょうか。また、中大兄皇子との関係も気になります。
この記事では、斉明天皇がどんな人だったのかを紹介し、皇極天皇や中大兄皇子との関係、家系や斉明天皇が行ったことやエピソードなどを紹介します。
斉明天皇はどんな人?
斉明天皇は第37代天皇で女帝
斉明天皇(さいめいてんのう)は飛鳥時代の655年~661年に在位した第37代天皇です。名は天豊財重日足姫尊(あまとよたからいかしひたらしひめのみこと)で、女帝です。
皇位の敬称は伝統的には男性でしたが、皇統を継ぐ皇族が幼少であるなどの理由にして、これまでに10代、総勢8名の女帝がいます。斉明天皇は第33代推古天皇、第35代皇極天皇に次ぐ3番目の女帝です。
斉明天皇は「皇極天皇の重祚(ちょうそ)」
斉明天皇は「皇極天皇の重祚(ちょうそ/じゅうそ)」になります。「重祚」とはひとりの天子がもう一度、天皇になることです。
斉明天皇の場合は、642年に皇極(こうぎょく)天皇(第35代天皇)として一度、即位しました。その後、弟の軽(かるの)皇子が孝徳天皇に即位したので、皇極天皇は退位しました。ところが孝徳天皇が亡くなると、皇祖母尊だったことから、一度皇極天皇として即していた斉明天皇が即位することになったのです。
斉明天皇は百済救援に向かった九州で病死
斉明天皇は、唐・新羅連合から圧力をかけられていた百済からの救援の要請を受けて、斉明天皇自ら九州・筑紫に赴いていました。その時に病にかかり、660年7年7月24日に朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなひろにわのみや)で亡くなりました。
斉明天皇は何をした人?逸話や出来事
斉明天皇の土木工事好きには非難も
斉明天皇は土木工事を好んだ天皇でした。多武峰の山頂付近には石塁や両槻宮(ふたつきのみや)を築き、香具山の西側から石上山(いそのかみやま)にかけた水路工事はもはや運河を作るほどの大工事です。
水路を掘るのに3万人、舟200艘を使って石上山の石を切り崩し後飛鳥岡本宮(のしのあすかみやもとのみや)の東にある山に石垣を作る工事に7万人もの人手が必要でした。この工事の様子から、人々は民衆「狂信(たぶれごごころ)の渠(みぞ)」と呼んで、その無謀さを非難しました。
阿倍比羅夫を蝦夷征討軍として派遣する
斉明天皇は、東北など北方に住んでいた蝦夷(えみし)を征討するために軍を派遣しました。蝦夷は独特な文化を持つ人々で中央政権に従わなかったことから、阿倍比羅夫(あべのひらう)が海上より討伐に向かいました。
斉明天皇陵の墓「牽牛子塚古墳」は2022年に公開
斉明天皇陵の墓だとされているのが「牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)」です。奈良県の明日香村にあり、八角形を3段重ねたような特徴的な形をしています。研究者は牽牛子塚古墳を斉明天皇の墓だとしていますが、宮内庁は別の古墳を斉明天皇の墓として意見が分かれています。
7世紀後半ごろに建設された牽牛子塚古墳は、その当時の様子を再現した工事が完了し、2022年3月から公開されています。
斉明天皇の家系図
斉明天皇の父は「茅渟王」母は「吉備姫王」
斉明天皇の父は茅渟(ちぬ)王で、母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)です。茅渟王は舒明天皇の異母弟で、茅渟皇子や智奴王とも呼ばれています。吉備姫王は欽明天皇の皇子だった桜井皇子の王女です。
夫は聖徳太子の子と皇位継承を争った「第34代舒明天皇」
斉明天皇の夫は第34代舒明天皇(じょめいてんのう)です。舒明天皇は、斉明天皇にとっては叔父で、実父の兄になります。
皇位継承では、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)と争いましたが、実権を握っていた大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし)と入鹿(いるか)の親子の援助を受けて、舒明天皇が天皇に即位したと言われています。舒明天皇は、婚姻後に都を大和の飛鳥岡本宮に移しました。
斉明天皇の子供は大化の改新を行った「中大兄皇子」
斉明天皇には、漢皇子(あやのみこ)、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、間人皇女(はしひとのひめひこ)、大海人皇子(おおあまのおうじ)の4人の子どもがいます。
中大兄皇子は大化の改新を行い、後に第38代天皇の天智天皇(てんじてんのう)になった人物です。大化の改新では中臣鎌足と共謀し、権力を振るっていた蘇我父子の子「入鹿(いるか)」を御前で暗殺します。翌日、父の蝦夷(えみし)が自害したため母である皇極天皇を譲位させ、皇極天皇の弟を孝徳天皇として即位させました。
また、大海人皇子は第40代天皇の天部天皇(てんむてんのう)になる人物で、即位中には8つの姓による氏姓制度を設け、律令制を進めました。
まとめ
斉明天皇とは第37代天皇で女帝です。2代前の皇極天皇にもなった人で、子供には大化の改新を行った中大兄皇子がいます。斉明天皇の時代では中大兄皇子が実権を握っていましたが、内政は安定せず、蝦夷の征討などを行いました。また斉明天皇は、大規模な水路を造るなどの土木工事を好んだ天皇としても知られています。