日本に浄土教を広めた「法然」を知っていますか?弟子の「親鸞」に注目が集まる法然ですが、「南無阿弥陀仏」と口に出して唱えることを日本に広めたのが法然です。
「法然」の思想とその生涯、さらに弟子の親鸞との違いについて、解説します。
「法然」とは?
法然(ほうねん)の思想について説明します。
法然の思想は「称名念仏」で「極楽浄土」へ
法然とは、「南無阿弥陀仏」と口に出して唱える「称名念仏」を行うことで誰もが救われるとする思想を説いた人物です。
「称名念仏」の思想は「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」ともいいます。「専修」とは、一つの行のみを修めることを指します。
さらに、法然は念仏によって救われるとする教えを初めて体系化したことから、称名念仏の元祖とされます。称名念仏の思想は、当時の人々の価値観をくつがえすものだったため、革命的な思想として受け止められました。
また、「称名念仏」を実践すれば他に修行する必要がないため、それは易しい行であるということで「易行(いぎょう)」ともよばれました。
法然の思想は「悪人往生」でも有名
さらに法然は、「称名念仏」を実践すれば、悪人でも往生できると説きました。この思想も当時の人々に驚きとともに受け止められました。「悪人往生(あくにんおうじょう)」の思想は弟子の親鸞によって深められてゆくこととなります。
法然の宗派は「浄土宗」
法然は「浄土宗」の開祖です。法然が比叡山を下りて念仏の教えを広め始めた1175年が、浄土宗の開宗年とされています。
法然は「浄土三部経」を浄土宗の経典とした
法然は多くの経典の中から、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『感無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』の3つを「浄土三部経」として浄土宗の経典としました。
このことは、法然の主著である『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』に記されており、現在の浄土宗、浄土真宗、時宗にも継承されています。
のちに「時宗」の開祖である一遍は、法然の「浄土三部経」の説示を根拠として南無阿弥陀仏の六字の名号が絶対的なものであることを論じました。
■参考記事
「一遍」とは?開いた「時宗」や「踊念仏」の特徴と名言も紹介
法然の生涯とは?
法然の生涯を紹介します。
父の遺言により仏門へ入った法然
法然は1133年から1212年まで、平安時代後期から鎌倉時代にかけて生きました。法然は9歳のときに父を武士に殺害されますが、武士ではなく僧侶となれという父の遺言により、仏門に入ることを決意します。
法然は当時の最高学府であった比叡山延暦寺に15歳で入り研鑽を重ねますが、43歳の時に法然の運命を変えた一文に出会います。唐の善導(ぜんどう)が記した「専修念仏」の思想です。それは念仏を唱えればだれもが極楽浄土へゆけるとする、当時としては革命的な考えでした。
法然は比叡山を下りて「称名念仏」を広める
そして法然は比叡山を下りて都にゆき、「称名念仏」を思想とした浄土教の布教を始め、それは全国に広がってゆきました。しかし既存の宗派から「仏教の曲解だ」という反発にあい、困難の多い活動でした。
法然は75歳のとき流罪に
ついに後鳥羽上皇の怒りを買い、僧侶の身分を奪われ流罪となる事件が1207年に起こります。翌年は罪を解かれ都に戻りますが、その2か月後に生涯を閉じました。
法然の時代は不安と絶望が蔓延していた
法然が生きた時代は、相次ぐ戦や治安の乱れ、さらに天変地異などの異常気象で、人々の間には不安と絶望が蔓延していました。厳しい暮らしから抜け出るには、解脱して仏となれば極楽浄土に行けるという仏教の教えがありましたが、暮らしに追われる庶民には手の届かないものでした。
そのような背景の中で、念仏を唱えるだけで誰もが極楽浄土に行って救われるとする法然の教えは、人々に衝撃とともに受け入れられ、また希望の光となったのです。
法然が生きた時代は「末法思想」の時代
さらにまた、法然の生きた時代は「末法思想」が吹き荒れる時代でもありました。「末法思想」とは、釈迦の入滅から2千年が経つと世の中が乱れるとする思想のことです。先に述べたような治安の乱れなどとも相まって民衆の不安は増大していたため、法然の教えは人々に受け入れられていったのです。
「法然」の言葉
法然の言葉を解説とともに紹介
智者の振る舞いせずして、ただ一向に念仏すべし。
知識があるかのごとくふるまうことなく、ただ南無阿弥陀仏ととなえることが大切である。
栄あるものも久しからず、いのちあるものもまた愁いあり。
繁栄は長く続かず、人の命も同じでいつかは必ず朽ちるものである。
一丈の堀を越えんと思わん人は、一丈五尺を越えんと励むべきなり。
志を達成するためには目標は一段高く設定するのがよい。そうして励めば、障害は克服できる。
「法然」と「親鸞」との違いは?
「法然」の弟子であり、「称名念仏」の教えをさらに広めたのが「親鸞(しんらん)」です。親鸞と法然の違いはどこにあるのでしょうか?
法然の弟子「親鸞」は「非僧非俗」を貫いた
法然の弟子であった親鸞は、法然と同じく流罪となりましたが、その時から生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫きました。非僧非俗とは、僧侶でもなく俗人でもないという立場で、具体的には僧侶の戒律を破って肉食妻帯を行い、また自身が教団を持つこともありませんでした。
一方で、法然は戒律を頑なに守り、生涯、戒を破ることはありませんでした。
法然は「浄土宗」、親鸞は「浄土真宗」
法然は「浄土宗」の開祖ですが、「親鸞」はのちに「浄土真宗」の開祖となります。どちらも念仏によって救われることを説きましたが、親鸞はそこから思想を進め、「阿弥陀如来」の力に任せきる「絶対他力」の立場をとります。
「絶対他力」とは、阿弥陀如来に帰依することにより極楽往生できるとする思想です。
■参考記事
「親鸞」の思想や教えとは?その生涯や名言も解説
まとめ
「念仏を唱えるだけで極楽浄土へゆける」とする法然の教えは、困難と不安の中にいた人々の救いとなり、法然のもとへは老若男女が詰めかけたといいます。また、身分が違っても誰もが等しく救われるとする考え方も革命的だったため、社会的に差別されていた人達にも人気がありました。法然の思想の流布は、日本の仏教のあり方に大きな変化をもたらしたとともに、人々の思想にも大きな影響を与えた出来事でした。