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「カール大帝」は文盲だった?生涯とローマ皇帝の戴冠や逸話を紹介

「カール大帝」は、8世紀から9世紀にかけて活躍した人物です。現代のヨーロッパの土台を作ったとも言われる人物で、実はトランプのハートに描かれる「キング」のモデルとなった人物でもあります。カール大帝の功績や「ローマ皇帝」の戴冠など、その生涯と逸話について紹介します。

「カール大帝」とは?

「カール大帝」とはフランク王国の国王

「カール大帝」(742年~814年)とは、カロリング朝フランク王国の国王だった人物です。その呼び名は複数あり、「カール1世」やフランス語で「シャルル1世」「シャルルマーニュ」とも呼ばれます。また、ドイツ・フランスの両国で英雄とされていることから、あえて英語読みの「チャールズ大帝」の表記を使用することもあります。

「カール大帝」とは現在のヨーロッパの礎を作った人物

「カール大帝」は、度重なる遠征で、西ヨーロッパのほとんどを占めるほどに領土を拡大したという功績を持ちます。これによって、ギリシャやローマの文化が西ヨーロッパに広がることになるとともに、ゲルマン文化との融合が促されました。

そのため、カール大帝は、現在のヨーロッパの礎を作った人物とされていて、「ヨーロッパの父」と呼ばれています。

「カール大帝」の生涯とは?

ヨーロッパの父とも呼ばれるカール大帝は、どのような生涯をたどったのでしょう。彼の功績とともに紹介します。

父・弟の死後、フランク王国の王となる

カール大帝が生まれた「カロリング家」は代々、フランク王国に仕えてきた名家でした。ピピン1世や2世は、宮宰として王国に仕えていましたが、カール大帝の父であるピピン3世は王位を奪い、カロリング朝を開きます。

カール大帝は、父ピピン3世の死後、当時の慣習に倣い、弟と分割して相続しますが、ほどなくしてその弟がなくなったため、単独で王位に就くことになりました(771年)。その後、カール大帝は43年もの長期にわたり、単独で王を務めています。

カール大帝は遠征で領土拡大、戴冠を受ける

カール大帝は、即位後、精力的に遠征を繰り返します。毎年のように繰り返される遠征は、文字通り、全方位へ渡り、西ヨーロッパのほぼ全域を支配するまでに至ります。その要となったのが、「騎馬兵団」でした。

カール大帝の功績を称えたローマ教皇(レオ3世)は、彼に「西ローマ皇帝」の戴冠(たいかん)を行います(800年)。これに合わせ、ローマ教皇は、「西ローマ帝国の復活」も宣言しました。しかし、実際には、東ローマ皇帝はこのカール大帝の戴冠を認めず、フランク王国との争いにも発展しています。最終的には和睦を結んだものの、それでも「皇帝」とは認めなかったようです。

また、この戴冠によって、ローマ教皇が「教権(宗教上の権力)」を担うようになり、ゲルマンやローマ文化とキリスト教文化が一体となったと言われています。

カール大帝には「神聖ローマ皇帝」の称号も

カール大帝は、「西ローマ皇帝」の称号だけでなく、「神聖ローマ皇帝」の称号も受けています。1165年に列聖を受けたのです。

「列聖」とは、死後に、信仰の模範となる信者を「聖人」とみなすことで、カール大帝は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によって列聖されました。

カール大帝死後のフランク王国は分裂

カール大帝によって、西ヨーロッパ地域のほとんどが征服されますが、残念ながら、孫の代でフランク王国は分裂します。その結果、フランク王国は、神聖ローマ帝国やフランス王国など、現在のフランス・イタリア・ドイツの「素」となったとされています。

これもまた、カール大帝が「ヨーロッパの礎を作った」と言われる理由のひとつです。

文盲だが、勉強熱心だったという逸話も

勢力を拡大して功績を挙げたカール大帝ですが、文字の読み書きはできなかったと言われています。そのため、署名をする際にも、その文字列の一部分しか書いていなかった、とも言われているようです。

その一方で、カール大帝には勉強熱心な一面もあり、石板に手習いをしたというエピソードや、食事中には歴史書などの書物を読ませて耳を傾けたという逸話も残っています。その努力の甲斐もあり、ラテン語を自由に操るほか、ギリシア語も聞き取れるまでになったそうです。

「カール大帝」の「カロリング・ルネサンス」とは?

領土を征服・拡大したカール大帝は、文化の振興にも力を入れていました。ここでは、カール大帝の統治下で巻き起こったカロリング朝の文化振興「カロリング・ルネサンス」について紹介します。

カロリング・ルネサンスは宗教色が強い

カール大帝は、フランク王国をキリスト教に基づいて統治することを目指していました。そのために、聖職者の質の向上やその養成を積極的に行うべく、教会付属学校を設置するとともに、ラテン語と古典文化研究を奨励します。

また、ヨーロッパ各地から知識人を招き、宮廷での教育を推奨しました。これにより、カール大帝の宮廷は、「宮廷学校」とも呼ばれるようになります。

このように、カロリング・ルネサンスは、単なる文化振興というよりは、宗教色の強い文化振興・宗教振興とも言えます。また、このカロリング・ルネサンスによって、キリスト教と古代ギリシャやローマの文化、あるいはゲルマン民族の文化の融合が促進されました。

カール大帝は書記法を「カロリング小字体」に定めた

カール大帝は、「カロリング小字体」を定め、書記方法を大きく変えたことでも知られています。大文字を用いた「ラテン書記法」を廃止し、「カロリング小字体」と呼ばれる統一字体を使用するとともに、従来の巻物ではなく「コデックス」に書き直しました。「コデックス」とは、現代の書物に近い、いわゆる「冊子」のような形態で、この「コデックス」の広まりとともに、「黙読」という文化も広まったとされています。

こうした書記法と記録媒体の変化も、カロリング・ルネサンスの大きな功績です。

まとめ

「カール大帝」は、即位後に遠征を繰り返し、西ヨーロッパのほぼ全域を征服します。それによって、異なる文化が融合し、新たにカロリング・ルネサンスも巻き起こりました。「カール大帝」による領土の征服はもちろん、文化の融合も、現代のヨーロッパにつながる礎となっていると言われています。