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皇帝「アウグストゥス」とは?カエサルとの違いや名言も解説

ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(紀元前63年~紀元14年)は、ローマ帝国の礎を築いたカエサルとともに古代ローマ史における重要な人物です。この記事では、アウグストゥスの生涯と名言などを解説します。あわせてカエサルとの関係や、名前が8月の語源となったエピソードなども紹介します。

「アウグストゥス」とは?

紀元1世紀に作られたアウグストゥスの大理石像(ヴァチカン美術館)

「アウグストゥス」はローマ帝国の初代皇帝

アウグストクス(Augustus)とは、ローマ帝国の初代皇帝です。在位は紀元前27年~紀元14年です。ローマ帝国の基礎を築いたカエサルのあとを継ぎ、実質的に帝政ローマ帝国を創建し、「パクス・ロマーナ」と呼ばれるローマの平和な時代を創始しました。

「アウグストゥス」は”カエサル”の後継者

アウグストゥスは、ローマ帝国の基礎を築いたガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100年~紀元前44年)の姪の息子です。アウグストゥスの母はカエサルの妹ユリアの娘です。

カエサルが暗殺された当時アウグストゥスは18歳でしたが、叔父であるカエサルのもとで働き、頭角を表していました。アウグストゥスの才能を見抜いたカエサルは、アウグストゥスを後継者に指定する遺言を残しました。

「アウグストゥス」は名前を変えていた

アウグストゥスの本名はガイウス・オクタウィウスですが、カエサルの後継者となった時からガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィウスと名乗るようになりました。

さらにその4年後に、優れた功績から「尊厳ある人」という意味のアウグストゥスという尊称を元老院より贈られ、それ以後アウグストゥスと名乗るようになりました。

「アウグストゥス」と「カエサル」は性格も容姿も違った

カエサルはカリスマ性を持った政治的天才で、強引に改革を進めたのに対し、アウグストゥスは慎重に時間をかけて権力を手にしてゆきました。また好戦的だったカエサルに対して、アウグストゥスは病弱で軍事も苦手としていました。そのため友人アグリッパに軍事を任せていました。

また、アウグストゥスはまれに見る美男で、その立ち居振る舞いも優雅で魅力的であったと多くの歴史家が伝えています。それに対して、カエサルの容貌を称賛する記述はなく、髪が薄かったことに言及する記述が目立ちます。性格も容姿も共通するところはなかったようです。

「アウグストゥス」の生涯と業績・名言とは?

アウグストゥス霊廟(ローマ)

アウグストゥスは生涯を通じて「市民の第一人者」を目指した

若くしてカエサルの後継者となったアウグストゥスは、武力によって征服するのではなく、立憲的な統治者として理性的にローマ帝国を統治しました。アウグストゥスは絶対的な権力者と見られることを避け、「市民の第一人者(プリンケプス)」と呼ばれることを、生涯を通じて好みました。

アウグストゥスは暗殺されることなく76歳でその生涯を静かに閉じました。

「共和制」から「帝政」へ移行しローマ帝国の新体制を創始した

アウグストゥスは、カエサルが暗殺されたのは、共和制を否定し、独裁官としての強引な政治が原因であることを理解していました。アウグストゥスは、それまで通りの共和制を表面上は保ちながら、自らを「第一人者」と呼ぶなど王を望んでいないことも示し、専制を覆い隠しながら権力地盤を築いてゆきました。

アウグストゥスの用心深い戦略により、元老院議員たちが気付かないうちに共和制は終焉し、ローマは帝政へと移行し、アウグストゥスは初代ローマ皇帝となりました。

ローマによる平和「パクス・ロマーナ」をもたらした

アウグストゥスはカエサルの残した内乱の時代を終わらせ、40年以上も安定した統治を行いました。その時代は「パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」と呼ばれます。

アウグストゥスはローマ市民からも大きな信頼を寄せられ、「市民の第一人者」と呼ばれました。

「アウグストゥス廟(皇帝廟)」の建立と「アウグストゥスの名言」

アウグストゥスは、自身がカエサルの正当な後継者であることを標ぼうし、カエサルの属するユリウス氏族による世襲を望んでいました。アウグストゥスはユリウス氏族の権威を高めるため、直径90メートルで三段にそびえる巨大なアウグストゥス霊廟を建立し、その最上部に自身の銅像を立てました。

加えてアウグストゥスのフォルム(公共広場)を造営し、広場には、4頭立ての戦車を操るアウグストゥスのブロンズ像が置かれました。さらにカエサル暗殺者への復讐を誓うマルス神殿を建立し、神殿内には神格化されたカエサルの像が置かれました。その他にもローマ全域を大規模に整備し、都市の再建と帝国の強化を行いました。

『ローマ皇帝伝』が伝えたアウグストゥスの最期の言葉である次の名言は、このような状況において述べられたものです。

わたしはレンガの街として引き継いだローマを、大理石の都にして残すのだ。

「アウグストゥス」のエピソードとは?

アウグストゥスのフォルム(ローマ)

「8月:August」は”アウグストゥス:Augustus”が由来

古代ローマの執政官ユリウス・カエサルが紀元前45年に制定した太陽暦「ユリウス暦」では、ローマ暦を踏襲して月の呼称にローマ神話の神々の名を用い、7月は自身の誕生月にちなんで「Julius」としました。カエサルを継いだアウグストゥスは、自分の名にちなんで8月を「Augustus」としました。現在の8月の英語「August」の語源です。

1582年にローマ教皇グレゴリウス13世が、ユリウス暦を改良したグレゴリオ暦を制定・実施しました。現在この暦が世界各国共通の暦として用いられていますが、ユリウス暦の月の名称は欧米諸国に引きつがれています。

「アウグストゥス」の帝治時代に”イエス・キリスト”が誕生した

アウグストゥスが帝国の体制を整えた頃の紀元前6世紀~紀元前4世紀頃、ローマ帝国の領土であったナザレ(イスラエルの都市)に暮らすユダヤ人のヨセフとマリアのもとにイエスが誕生しました。ローマ帝国やその領土には、ユダヤ人も多く暮らしていました。

アウグストゥスとイエスが出会ったことがあったかどうかの記録はありませんが、イエスの誕生地について、アウグストゥスの人口調査の勅令が関係しています。全ローマ帝国の人口調査の勅令により、すべての人が登録を受けるために自分の生まれた地に帰ることになりました。

「ルカ福音書」によれば、登録のためにヨセフは妊娠中のマリアとともに故郷ベツレヘムへ向かい、旅の途中でイエスを出産します。宿は混んでいて場所がなかったので、イエスは飼葉桶に寝かせられました。

粗末な馬小屋の中に産着にくるまれたイエスがに寝かせられている「キリストの降誕」を描くシーンには、アウグストゥスの人口調査がかかわっていたわけです。

なお、イエスは自らが救世主だと名乗ったことで、ユダヤ法廷から有罪を宣告されます。属州総督としてイエスの磔刑を承認したのはピラトです。イエスが処刑されたのは29年~33年頃とされ、そのときのローマ皇帝は第2皇帝ティベリウスでした。

まとめ

「アウグストゥス」とは、ラテン語で「尊厳ある者」という意味を持ち、のちのローマ帝国皇帝を示す最高の称号として用いられました。その名が示すとおり、アウグストゥスは武力に頼らずローマに平和をもたらし、人々に尊敬される尊厳ある生涯を生きました。

養父であるカエサルが暗殺されたとき、アウグストゥスは18歳でした。彼が慎重で巧妙なやり方で権力を行使することを選んだのは、カエサルの暗殺の教訓を胸に刻んでいたからだとも指摘されています。

アウグストゥスの最期の言葉として伝わるもう一つの名言「人生という喜劇で、私は自分の役をうまく演じきれただろうか?」との言葉は、彼の人生の処し方を表しているといえます。

■参考記事
「カエサル(シーザー)」の生涯とは?「名言」とその意味も解説