「コペルニクス」の「地動説」とは?「天動説」との違いや名言も

「コペルニクス」は「地動説」を唱えた人物としてよく知られていますが、他にも法学者や医師としての肩書も持つ人物です。「コペルニクス」や「地動説」の内容について紹介するとともに、同じく「地動説」を支持したガリレオとの違いについても言及しました。

「コペルニクス」とは?

「コペルニクス」とは天文学者で”地動説”を唱えた人物

「ニコラウス・コペルニクス」(1473年~1543年)とは、ポーランド出身の天文学者です。当時主流とされていた「天動説」を覆す「地動説」を唱えた人物としてよく知られています。また、カトリック司祭でもあります。

早くに両親を亡くしたコペルニクスは、叔父によって育てられていますが、その叔父が司祭になることを望んだため、クラクフ大学に入学しています。そこで、「天動説」に疑いを持っていたアルベルト教授によって、天文学に出会いました。しかし、結局は学位を取らずに、ヴァルミアの「律修司祭」となっています。

「コペルニクス」とはほかにも多彩な肩書を持つ人物

コペルニクスには、天文学者以外にも、法学者・医師・占星術師などの肩書があります。

彼は、ヴァルミアの聖堂参事会の許可を得ながら留学を繰り返し、法律や天文学・医学などを幅広く学びました。他にも、司教座聖堂参事会員(カノン)や知事、長官などの経験も持っています。

「コペルニクス」の唱えた「地動説」について

コペルニクスと言えば、なんといっても、「地動説」です。この「地動説」についてもう少し詳しく紹介しましょう。

「地動説」とは宇宙の中心を「太陽」とする学説

「地動説」とは、宇宙の中心を「太陽」ととらえ、地球を含むほかの惑星が、太陽の周りをまわっている(公転している)とする考え方です。コペルニクスの「地動説」は非常に有名で、太陽を中心に、公転周期の短い惑星を内側から順に、水星、金星、地球、火星、木星、土星と配置しました。また、月のみが地球の周りをまわっているとしています。

ただし、「地動説」をはじめて唱えたのはコペルニクスではなく、紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスとされています。

コペルニクスは、余暇を利用し、天体観測を行い、自身の「地動説」をまとめ上げたのも特筆すべき点です。1508年頃からその着想を得たコペルニクスは、1510年には叔父から独立してヴァルミアに戻るとともに、同人誌「コメンタリオルス」にてはじめて自身の地動説を発表しました。ただし、この本は友人に贈られたもので、一般的な発表には遠いとされています。

「天動説」とは「地球」を中心とした学説

コペルニクスが「地動説」を唱えた当時、主流となっていた学説は「天動説」でした。「天動説」とは、「地球」が宇宙の中心に静止した状態であり、すべての惑星が地球の周りをまわっている(公転している)とする考え方です。

「天動説」は、2世紀中ごろから定説として採用されていたものですが、観測精度が向上するにつれ、惑星の運行をあらわす「周転円」の数が増えてしまい、非常に複雑な状態に陥っていました。コペルニクスが「地動説」を再発見した背景には、「天動説」の限界もあったのです。

コペルニクスは当初書籍の出版に消極的だった

コペルニクスは、「地動説」を同人誌に著した後も、公には司祭として、あるいは聖堂参事会の文書管理や財政管理の仕事を続けながら、天体観測を続けていたとされています。その間に、「ドイツ騎士団国」による攻撃や宗教戦争などに巻き込まれます。そして、コペルニクスがようやく自らの考えをまとめ始めたのは、1529年頃のことでした。

当初、コペルニクスは公に書籍として発表するつもりはなかったとようですが、彼の考えは周囲に広がり、多くの人が彼に書籍を発表するよう説得されたとされています。そのカギとなった人物が、コペルニクスの唯一の弟子となった「レティクス」でした。

レティクスからの強い勧めの結果、1542年にようやく地動説についてまとめた『天体の回転について』の草稿が完成します。その後、コペルニクスは脳卒中で倒れ、1543年に亡くなる当日に、ようやく書籍が完成したのです。

「地動説」を巡ってガリレオは有罪に

コペルニクスの死と同時に完成した書籍によって、彼の死後にはさらに観測・理論化の研究が進みました。その結果、地動説=異端な思想として警戒を招くこととなり、1616年にコペルニクスの書籍は禁書となります。

また、ガリレオ=ガリレイ(イタリアの天文学者で物理学者)は、地動説を唱えたことによって裁判で有罪となっています。ガリレオの「それでも地球は回っている」という名言は世界的にも有名です。ただし、ガリレオが有罪判決を受けた背景には、当時の学問批判なども理由として挙げられています。

「コペルニクス」の名言と関連用語とは?

コペルニクスは地動説を唱えただけでなく、他にもいくつかの功績を残しています。彼の名言とともに紹介します。

「悪貨は良貨を駆逐する」

1516年から聖堂参事会の財政部門を担当していたコペルニクスは、業務の中で、「貨幣の質のばらつき」に気づきます。そのことについて、1517年の論文で、「悪貨は良貨を駆逐する」という名言が生まれました。

「悪貨は良貨を駆逐する」とは、貨幣の額面価値と実質価値に「かい離」が生じた際に、実質価値の低い方の貨幣が流通する、その一方で、実質価値の高い方の貨幣は、流通しなくなるというコペルニクスの理論です。

一般に、これは「グレシャムの法則」と呼ばれますが、グレシャムが発見する以前にコペルニクスが唱えたとされています。

「コペルニクスの原理」は”地球は特別ではない”という考え

「コペルニクスの原理」とは、地球は宇宙の中心にあるような特別な場所ではなく、同様に、特別な観測者も存在しない、という考えのことです。コペルニクスが地動説において、「地球はほかの惑星と同じように太陽の周りをまわっている」と唱え、「地球は特別なものではない」と主張したことにちなんで「コペルニクスの原理」や「宇宙原理」と呼ばれています。

なお、最初に「コペルニクスの原理」と名付けたのは、オーストリアの天体物理学者ヘルマン・ボンディで、1940年頃とされています。

「コペルニクス的転回」は比喩的表現

コペルニクスの功績にちなんだ表現には、「コペルニクス的転回」という表現もあります。

コペルニクスが、「天動説」から「地動説」へと当時の通説を大きく変えてしまったように、物事の見方が180度変わるような出来事に対して、「コペルニクス的転回」という表現を使用します。コペルニクスの業績が受け入れられ始めた18世紀後半に、哲学者のカントが著したとされています。

「コペルニクス革命」はその功績を称えた表現

「コペルニクス革命」とは、文字通り、コペルニクスが起こした革新的な功績を表す言葉です。

コペルニクスによって「天動説」から「地動説」へと大きく流れが変わったのは、天文学において革命的な出来事でした。このコペルニクスの「地動説」は、ガリレオやケプラー、ニュートンなどのちの研究者に引き継がれたことから、こうした近代科学理論に向かう全体的な流れを指して「コペルニクス革命」ということもあるようです。

「コペルニクス計画」はESAとEUの地球観測プログラム

歴史的な偉業から「コペルニクス」の名を借りた表現を紹介しましたが、「コペルニクス計画」は21世紀のヨーロッパで行われているプログラムです。

「コペルニクス計画」とは、EUとESA(欧州宇宙機関)による地球観測計画のことです。同計画では、地球観測衛星が取得した画像をもとに、農業や漁業、環境政策のほか、安全保障政策への活用が考えられています。

まとめ

「コペルニクス」は、「地動説」を唱えた人物で、当時の考えを180度大きく変え、その後の天文科学の流れを大きく作りあげた人物です。コペルニクスが世界ではじめて「地動説」を唱えた人物として誤解されやすいのですが、コペルニクスはすでにあった「地動説」を再発見したという表現がふさわしいでしょう。