「マネ」の絵画革命とは?「モネ」との関係や代表作品も解説

「エドゥアール・マネ」はヨーロッパ近代絵画の父と呼ばれ、「モネ」を代表とする印象派絵画の先駆者です。19世紀絵画史における重要な役割を果たしたマネとは、どのような画家なのでしょうか?この記事では、マネの行った絵画改革についてと、モネやドガとの関係や、『オランピア』など代表的な作品について解説します。

「エドゥアール・マネ」とは?

アンリ・ファンタン=ラトゥール『バティニョールのアトリエ』1870年
絵筆を持つマネを、ルノワールやモネが囲む
(出典:Wikimedia Commons)

「マネ」とは絵画の在り方を根本から変えた画家

エドゥアール・マネ(Édouard Manet、1832年~1883年)とは、19世紀のフランスの画家です。「印象派の先駆者」「近代絵画の始祖」などと呼ばれ、絵画の在り方を根本から変えた画家として重要な存在です。

マネは、ドラクロワなどのロマン派と、モネやルノワールなど印象派世代の間に位置づけられます。日本では印象派の人気が高いですが、マネは印象派に属さないことから、その功績に反してマネが注目される機会は低い傾向があります。

マネは伝統的な古典絵画を引用しながら、パリの都市生活者の実際の姿を描き、芸術に新しい領域を見い出しました。

スキャンダルを巻き起こした「マネの革新性」

当時のフランス絵画界では、サロン(官展)に入選することが画家としての成功への唯一の登竜門でした。しかし、マネの作風は絵画の伝統を打ち破る革新的なものであったため、落選を繰り返すことになります。

初期の作品『草上の朝食』と『オランピア』は、古典やキリスト教をテーマとした歴史画を最上とする伝統に反して、実在する人間や娼婦の裸婦像をありのままに描いたことにより、スキャンダルを巻き起こしました。

また、マネはあえて筆触を残したり、遠近法を使わずに平面的な画面構成を行うなど、伝統的な約束事にとらわれない新しい手法に挑みました。さらに、日本の屏風や浮世絵など、日本美術の要素やモチーフを積極的に取り入れました。これらのマネの革新的な挑戦は、あとに続いた印象派の先駆となりました。

マネは「印象派の画家の指導者」

マネはブルジョワ階級の出身で、洒脱で社交的なパリジャンでした。マネは典型的な都市のブルジョワ富裕層の生活を送りながら、近代化するパリの都市生活者を観察し、その光と闇を描きました。

芸術界に新しい風を送り込むマネの周りには、前衛的な芸術家たちが集まり、日夜近所のカフェ・ゲルボワで熱い議論を交わしていました。マネは指導者的な位置におり、のちに印象派を代表する画家となるドガやルノワール、クロード・モネなどに影響を与えました。

マネと「モネ」「ドガ」との深い交流

マネより8歳年下のモネはマネを敬愛し、一方マネはモネを経済的に支援するなど、深い交流がありました。マネが病気で51歳で亡くなると、モネは『オランピア』を国家に寄贈するために資金集めに奔走し、ルーブル美術館に収めることに成功、マネの評価を高めることに貢献しました。

マネと同じくブルジョワ家庭に生まれたドガは、マネとは対照的に内向的な性格でしたが、二人は深い絆で結ばれていました。お互いに影響を与えあいながらパリの光景を描きました。

「マネ」の代表作品を紹介

大批判された最初の作品『草上の昼食』(1863年)

オルセー美術館(パリ)
(出典:Wikimedia Commons User:Paris 16)

政府が主催する公募展であるサロンは審査が非常に厳しく、応募作のうち3割ほどしか入選しないこともあり、落選者の不満が募っていました。状況を危惧したナポレオン三世は落選した作品を展示する「落選展」を実施します。

サロンに落選したマネの『草上の昼食』は1863年の落選展に出品されましたが、一般女性のヌードが描かれているとして大スキャンダルを招き、厳しく批判されました。

『草上の昼食』は、ヴェネツィア・ルネサンス絵画の傑作であるティツィアーノの『田園の奏楽』(1511年頃)を借用し、裸婦を同時代の女性に置き換えて現実の場面を創り上げたものです。ティツィアーノが描いた裸婦は、ギリシャ神話の妖精「森のニンフ」であるため、高尚な絵画とされていました。

マネは美術界の封建的な状況に立ち向かい、パリの風俗の実態を描き出そうとしたのです。

絵画を改革した『オランピア』(1863年)

オルセー美術館(パリ)
(出典:Wikimedia Commons User:Crisco 1492)

この作品は1865年のサロンに出品し、入選しましたが、『草上の昼食』を超えるスキャンダルとなりました。低俗な「娼婦のヌード」であると批評家たちは激しく非難しました。「オランピア」とは、パリの娼婦がよく使う名前でした。

この作品は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』(1538年)の基本構図を借用して描かれました。『ウルビーノのヴィーナス』は理想化された女性像を古典「ヴィーナス」に依拠して描いているのに対し、マネは世俗の中に実際に存在する高級娼婦の類型をあるがままに描いたのです。

『オランピア』は、それまでの伝統を覆し、実際のパリの影を露わにしたことで、絵画を改革した1枚として絵画史に刻まれる作品です。

最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』(1881~82年)

コート―ルド美術館(ロンドン)
(出典:Wikimedia Commons User:Coat of Many Colours)

マネの最後の大作は、パリの人気カフェ「フォリー・ベルジェ―ル」を舞台とした、当時の新興都市パリの一夜を描いたものです。主役はカフェで働く娘で、背後の鏡には、ブルジョワ階級の人々の歓楽の様子が幻影のように描かれています。

都市生活者の哀愁と現実を描いた、これまでの画業の集大成であるこの作品は、サロンに出品され大絶賛されました。

まとめ

マネは、過去の古典的な絵画を参照し、新しい絵画を創り出しました。マネの作品は、当時のヨーロッパ絵画を根幹から変革し、その後の印象派やピカソやマティスなどの近代絵画の出発点となりました。

マネと印象派の違いは、印象派の画家たちは伝統との関係を持たなかったのに対し、マネはギリシャ・ローマ古典芸術やルネサンス絵画を尊重し、引用しながら現代を描いたことです。

ジョルジュ・バタイユは近代絵画の誕生を論じた『マネ』を発表し、ミシェル・フーコーはマネを近代絵画の最初の画家として研究し、論じました。マネの改革は、思想界にも影響を与えました。

■参考記事
「印象派」とは何か?絵画の特徴や代表的な画家と作品も解説