「印象派」とは何か?絵画の特徴や代表的な画家と作品も解説

「印象派」は、日本人にもっとも親しまれる西洋絵画のジャンルです。印象派とはどのように誕生し、どのような特徴があるのでしょうか?この記事では、印象派の歴史や特徴と、代表的な画家とその作品について解説します。あわせてポスト印象派についても解説しています。

「印象派」とは?

モネ『印象・日の出』(1872年)
(出典:Wikimedia Commons User:Paris 16)

「印象派」とは19世紀後半のパリに起こった芸術運動

「印象派」とは、19世紀後半のパリに起こった芸術運動です。この時代のパリは、フランス第三共和制が成立し、市民社会に発展と成熟がもたらされた時期にあたります。印象派の運動は、パリ市民社会の発達とともに成長しました。

印象派は、それまでの伝統的な美術界に革新と変容をもたらし、近代絵画への橋渡しを行いました。印象派は西洋絵画史に大きな影響を与えた重要な運動です。

「印象派」は保守的な王立美術アカデミーに対抗する改革者だった

当時のフランス美術界は、17世紀のルイ14世の治下において創設されたフランス王立美術アカデミーが権力を持っていました。美術アカデミーはテーマを格付けし、古典や宗教などの幅広い知識を必要とする歴史画が高貴なテーマで、現実の世界を描く風景画や風俗画は低いテーマだとしていました。技法においては、画面に筆の跡を残さないことなどを絶対的な基準としていました。

このような保守的なアカデミーに支配されるサロン(公的展覧会)は、印象派の画家たちを認めませんでした。なぜなら、印象派のテーマは歴史ではなく、実際のパリの風俗や風景であり、また技法としては、屋外で素早く仕上げるために筆跡を残したり、塗らない部分をあえて残すなど、伝統的な規定からは逸脱していたためです。

19世紀の後半まで、画家が作品を発表する場はサロンしかなかったため、印象派の画家たちは厳しい状況に陥ります。しかし、それが改革の原動力にもつながってゆきました。

「印象派展」の活動が印象派の特質

美術アカデミーと相容れなかった印象派の画家たちは、1874年にみずから第1回印象派展を開催します。印象派展は1886年まで合計8回開催され、これに参加した画家たちを印象派と呼びます。

第1回印象派展の参加メンバーには、モネ・ルノワール・ドガ・セザンヌ・シスレーなどがいました。印象派展ははじめは評価されませんでしたが、次第に画商や富裕層などに人気が高まってゆきました。

グループが結成されてから最後の印象派展が開催されるまでに12年が経過していました。その間に印象派は地位を確立し、前衛の立場ではなくなり、ポスト印象派の画家たちが台頭します。ポスト印象派についてはのちほど詳しく説明します。

モネの『印象、日の出』が「印象派」の名の由来

「印象派」の名前は、クロード・モネの作品『印象、日の出』に対して、批評家が”ただの印象を描いただけの稚拙な絵”だと酷評したことがきっかけで命名されました。印象派の先駆者エドゥアール・マネが、「印象」という言葉をよく使っていたことも影響しています。

「印象派」の特徴とは?

マネ『バルコニー』(1868~69年)
(出典:Wikimedia Commons User:Paris 16)

印象派の先駆者となった「マネ」

印象派の画家として紹介されることもあるマネですが、実際は印象派展には一度も出品しておらず、印象派の指導者としての役割を担ったのがマネでした。マネはパリの光と闇の真実を描き、サロンに挑み続け、印象派の先鞭となりました。

マネの周囲には印象派の画家たちが集まり、カフェなどで日夜議論を行っていました。マネの芸術論は、印象派の画家たちに大きな影響を与えました。

■参考記事
「マネ」の絵画革命とは?「モネ」との関係や代表作品も解説

素早い筆遣いで光のあふれる風景を描いた

印象派絵画の特徴は、それまで屋内のアトリエで描くことが常識とされていた伝統を破り、屋外に出て目の前の風景や風俗を描いたことが第一に挙げられます。

一瞬の光の移り変わりを素早く写し取るため、ラフな筆致で時にはあえて塗り残すこともありました。鮮やかで明るい色彩も特徴です。それは絵の具を混ぜずに直接カンヴァスに絵の具を置く技法によるものです。

屋外、風景画、風俗画、ラフな筆致、絵の具を混ぜないこと、これら全てがそれまでの伝統絵画に反する改革でした。

「印象派」の画家とその代表作品とは?

モネ『積藁 夏の終わり』(1890年~91年)
(出典:Wikimedia Commons)

近代風景画の父「クロード・モネ」

印象派の画家として第一に名前が挙がるのがクロード・モネ(Claude Monet、1840年~1926年)です。

モネは主に風景画を描き、『積藁』『ルーアン大聖堂』『睡蓮』などの連作によって印象主義の理論と技法を発展させ、近代風景画の父と呼ばれます。

モネはルノワールとともに、印象派の象徴ともなる、絵の具を混ぜない「色彩分割法」を生み出しました。『ラ・グルヌイエール』で用いたのがはじまりです。

人物の一瞬の動きをとらえた「エドガー・ドガ」

バレリーナの絵で知られるエドガー・ドガ( Edgar Degas 、1834年~1917年)は、マネと友人関係にあり、お互いに影響を与えあいながらパリの風景を描きました。彼らは、都市の近代化を享受するブルジョワ階層の人々と、近代化の犠牲となった貧しい階層の人々を描き、近代都市として台頭しつつあったパリの二面性を浮かび上がらせました。

■参考記事
「ドガ」とは?人物像と絵画の特徴を解説!バレリーナの意味も

ブルジョワジーの肖像画家「ルノワール」

ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 、1841年~1919年)は、モネとともにパリやパリ近郊の風俗画や風景画を描きました。特に肖像画の画家として有名です。印象派の画家たちが、ブルジョワ階級の出身だったのに対し、ルノワールは唯一の労働者階級出身でした。

『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』は印象主義の技法を用いた典型的な絵画です。『シャルパンティエ夫人と子供たち』のようなブルジョワ階級の夫人たちをモデルにした肖像画を多く描きました。

■参考記事
「ルノワール」の生涯と技法とは?モネとの関係や代表作品も解説

「ポスト印象派」とその画家とは?

セザンヌ『サント・ヴィクトワール山』(1887年頃)
(出典:Wikimedia Commons User:Scewing)

1880年代からフランスを中心に新しい様式で活動を始めた画家を、印象派と区別するために「ポスト印象派」と呼びます。様式的な共通点はなく、それぞれが独自の作風を持ちます。セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホなどがポスト印象派の代表的な画家です。

キュビズムに影響を与えた「セザンヌ」

ポール・セザンヌ(Paul Cézanne、1839年~1906年)は、当初はモネやルノワールらとともに印象派の一員として活動していましたが、1880年前後から印象派運動から離れました。印象主義が光の反射などに固執するあまり、形態と構図を見失ったことに不満を覚え、故郷エクス・アン・プロヴァンスに戻り、独自の理想的な絵画様式を追求しました。

20世紀に入りピカソやブラックなどがセザンヌの造形を追求してキュビズムを生み出すなど、近代美術に大きな影響を与えました。

タヒチに渡った「ゴーギャン」

ポール・ゴーギャン( Paul Gauguin、 1848年~1903年)は、印象派展に参加していましたが、印象派が失った形態を取り戻すために、「クロワゾニスム」という太い輪郭線と色の面で画面を仕切る技法を用いて独自の様式を探求しました。後年は南太平洋のタヒチなどでエキゾティックな近代絵画を描きました。

■参考記事
「ゴーギャン」とは?ゴッホとの関係やタヒチを描いた代表作品も

パリに出て印象派の影響を受けた「ゴッホ」

フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh、1853年~1890年)は、フランスに生まれたセザンヌやゴーギャンとは異なり、オランダに生まれました。1886年にパリに出て、印象派やスーラの新印象派の影響を受け、明るい色調の絵を描きます。

まとめ

「印象派」とは、19世紀後半のパリに起こった芸術運動で、マネやルノワールらのグループが中心となって発展しました。印象派の画家は、近代化されてゆくパリの風俗や、パリ近郊の風景画などを描きました。「印象派」は古典的絵画と現代絵画の橋渡しを行なった、絵画史における重要な運動です。

セザンヌやゴッホなど「ポスト印象派」の画家たちは、いずれも都会とは異なる風土の中でそれぞれの道を追求しました。

印象派やポスト印象派の画家たちは、ヨーロッパの古典絵画の伝統から抜け出し、新しい絵画のあり方を追求しました。そのテーマのわかりやすさや、親しみやすく心地よい美しい風景や都会の風俗などが日本人にも共感を呼び、人気を博しています。