「キリコ」の形而上絵画とは?シュルレアリスムや代表作品も解説

「ジョルジョ・デ・キリコ」は、ダリやピカソなどシュルレアリスムの絵画に影響を与えた「形而上絵画」を創始したギリシャ生まれの画家です。一度見たら忘れられない、見る人を不安にさせる作品はどのようにして生まれたのでしょうか?

この記事では、キリコとはどのような画家なのかをその生涯とあわせて紹介します。あわせてキリコの形而上絵画の代表作品も解説しています。



「ジョルジョ・デ・キリコ」とは?

ジョルジョ・デ・キリコのポートレート(1936年)
(出典:Wikimedia Commons User:Jacek Halicki)

「キリコ」は「シュルレアリスム」の先駆となった画家

ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico、1888年~1978年)は、形而上絵画を提唱し、シュルレアリスムの発展に大きな影響を与えたギリシャ生まれのイタリア人画家です。日本では「デ・キリコ」の名称が用いられます。

キリコは、古典的なイタリアの建築と謎めいたものを組み合わせた風景などを多く描き、神秘的な独自の作風で知られています。ニーチェの「謎以外に何を愛しえようか」を座右の銘としており、詩人のジャン・コクトーからは「世俗の神秘を描く画家」と評されました。

シュルレアリスムとは、第一次世界大戦後の1924年にフランスの詩人アンドレ・ブルトンが発表した『シュルレアリスム宣言』に始まる、20世紀の芸術界を代表する思想運動です。日本語では「超現実主義」と訳され、現実を超える現実を表現しようとしました。

ダリやピカソ、マグリットなどが代表的な画家ですが、キリコはシュルレアリストではなく、独自の活動で運動に影響を与えた画家です。

■参考記事
「シュルレアリスム」の意味とは?代表的な画家や文学も紹介

幻想絵画の一つ「形而上絵画」を創始

キリコは、第一次世界大戦中から自身の絵画を「形而上絵画」と名乗るようになりました。「形而上」とは、形を持たないもの、有形の世界の奥にある深遠で究極的なもの、という意味の哲学用語です。キリコがニーチェに共感した世界の無意味さという観念を絵画に表しました。

空虚な都市空間や、どこか辻褄の合わない奇妙な風景、瞑想的な風景など、非日常的な世界を描くキリコの形而上絵画は幻想絵画の一つとも言えるものです。

なお、形而上絵画は国際的な広がりを見せたシュルレアリスムの先鞭とされますが、両者は別の運動です。形而上派にはモランディも加わりイタリアのみで展開されました。その画面には古典的な雰囲気や静謐な静けさが漂い、刺激的・挑発的なシュルレアリスムとは異なる世界観を持っています。

また、未来主義者であったカルロ・カッラ(1881年~1966年)は、キリコと出会ったことで形而上絵画を描き始めますが、その創始者であると名乗ったことから、キリコと対立しました。

キリコは「デペイズマン」の手法を用いた代表的な画家

キリコの作品には、シュルレアリスムの代表的な技法もである「デペイズマン」が多用されています。デペイズマンとは、事物が本来あるべき場所やイメージとかけ離れた場所に置かれたり、予想外の出会いを意味する美術用語です。

キリコの作品には、古代のモチーフと現代のモチーフとの共存や、現実にはありえない事物の組み合わせが多用され、デペイズマンの代表的な画家とされます。ルネ・マグリットもデペイズマンを多用しました。

文学では、19世紀フランスの詩人ロートレアモンの『マルドロールの歌』が有名で、デペイズマンの世界観の説明のために次の一節がしばしば引用されます。

解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会いのように美しい

「キリコ」の生涯とは?

イタリア・トリノの街角

パリで詩人ギヨーム・アポリネールに見い出された

ギリシャに生まれたキリコは、幼い頃から画才があり、地元の画家のデッサン教室に通っていました。17歳のときミュンヘンに出て美術アカデミーで学びます。絵画ではドイツ・ロマン派の影響を受け、哲学ではニーチェやショーペンハウアーから大きな影響を受けました。

トリノの街に影響を受けるなどしながらイタリアを経て1911年にパリに移り、この頃から題名に「形而上的」が現れます。第一次世界大戦の前から大戦の終わり頃にかけて、集中して形而上絵画が制作されました。

1913年には詩人のギヨーム・アポリネールの勧めでパリの美術展アンデパンダン展に出品し、『赤い塔』が初めて売れました。

アポリネールは無名だったキリコを高く評価し、キリコの絵に触発された詩も手がけました。キリコもまたアポリネールを尊敬し、多くの肖像画を描きました。

形而上絵画がシュルレアリストに絶賛される

1920年代にはアンドレ・ブルトンがキリコの形而上絵画を発見し、シュルレアリスムのグループに影響を与え、キリコもグループに歓迎されました。しかし、シュルレアリストたちは1920年以前の形而上絵画のみを評価したため、のちにキリコはシュルレアリストとは決別することになります。

第一次世界大戦が終わると、形而上的で詩的なテーマだけでは過去の巨匠が到達した絵画の偉大さに達することができないと考え、キリコは新たな模索を始めていました。ローマのボルゲーゼ美術館でティツィアーノの絵画を見ていた時、偉大な絵画とは何であるかを啓示されたと回想録に記しています。

1930年代から40年代は、古典を研究し、伝統的な技法に基づく作品を制作します。この時期の様式を古典回帰とする見方がありますが、実際は形而上絵画を進歩させたものでした。

晩年は新形而上様式を確立

1960年代後半からは、自身の絵画を分解して断片化し、統合させる手法である新しい形而上様式を確立します。80歳を超えても絵を描き続け、1975年にフランスの美術アカデミーの会員となります。1978年、闘病の末に、ローマの病院で90歳で亡くなりました。

「キリコ」の代表的な作品を紹介

トリノの広場

デペイズマンの代表的な作品『愛の歌』(1914年)

第一次世界大戦前後の期間は、多くの形而上絵画を生み出しました。『愛の歌』もその頃の作品で、デペイズマンの手法が使われています。

古代ギリシャの神アポロンの彫刻、赤いゴム手袋、緑色の球体がローマ時代のアーケードのある建物の横に配置され、後方には蒸気機関車が描かれています。不条理で非論理的、違和感のある構成手法は、シュルレアリストに大きな影響を与えました。

憂鬱と不安を反映させた『通りの神秘と憂鬱』(1914年)

『通りの神秘と憂鬱』も『愛の歌』と同じく形而上絵画時代の作品で、キリコの憂鬱と不安を反映させた作品だとされます。

遠近法を無視し、消失点をずらして描かれた歪んだ町は鑑賞者を不安定な気持ちにさせます。そこに描かれた少女の影と、その先にある別の大きな影は、鉢合わせしそうな不安と不条理を感じさせます。

まとめ

ジョルジョ・デ・キリコの作品でよく知られているのが形而上絵画の作品です。実在していそうな風景なのに、歪んでいたり、人の気配がなかったり、あるいはかみあわない対象物が並置されていたりと、見る者の気持ちを不安にさせるのが特徴です。その根底にはニーチェの哲学からの決定的な影響がありました。

キリコは、伝統絵画を踏襲することなく、また前衛画家の集団に入ることもなく、謎をたたえた独自の作風を追求しました。