「皇極天皇」は何した人?譲位・重祚の流れや蘇我入鹿との関係も

「皇極天皇」は飛鳥時代の第35代天皇で、史上二番目の女帝です。この「皇極天皇」ははじめて譲位し、またはじめて重祚(ちょうそ)した天皇としても知られています。「皇極天皇は何をした人?」をはじめ、即位・譲位・重祚までの経緯や蘇我入鹿との関係、雨乞いのエピソードについても紹介しましょう。

「皇極天皇」は何をした人?

「皇極天皇」は第35代、史上2番目の女性天皇

「皇極天皇(こうぎょくてんのう)」は第35代天皇で、在位は642年〜645年と飛鳥時代の天皇です。推古天皇に続く、2番目の女性天皇としてもよく知られています。

「皇極天皇」は初の譲位および重祚をした天皇

「皇極天皇」は歴史上はじめて譲位をした天皇です。政権の後ろ盾だった権力者蘇我入鹿の暗殺を機に、天皇の地位を弟に譲っています。

また、初の譲位のみならずはじめて重祚(ちょうそ)した天皇としても有名です。「重祚」とは、一度その位を退いた天皇が再び、天皇の位に就くことを意味します。「皇極天皇」は一旦はその地位を退いていますが、第37代天皇として後に再び天皇の位についています。

「皇極天皇」は雨乞いでも知られる

「皇極天皇」は雨乞いのエピソードでも知られます。『日本書紀』によると、他の誰が雨乞いをしてもほとんど降らなかったのに、「皇極天皇」が雨乞いをしたらたちまち大雨になったとの記述が残っているようです。このエピソードは「皇極天皇」の霊験あらたかな様を伝えるものとしても語り継がれています。

「皇極天皇」の即位と譲位のいきさつ

「皇極天皇」は夫・舒明天皇の死後即位

「皇極天皇」は夫である舒明天皇(じょめいてんのう)の死後、即位しています。舒明天皇が亡くなった後には、後継者とされる人物が複数存在し、その争いを避けるために、妻であった宝皇女(たからのおうじょ)が即位、「皇極天皇」となったとされています。一方で、この“後継者争いを避けるため“というのは表向きに過ぎず、当時権力を握っていた蘇我蝦夷(そがのえみし)が、自分が推薦する古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を皇太子にするための目論みのひとつだったとも言われています。

大化の改新を経て、孝徳天皇に譲位

舒明天皇の時代に引き続き、蘇我蝦夷および蘇我入鹿(そがのいるか)父子は、「皇極天皇」の治世においても国政に大きな権力を持っていました。しかし、645年その勢力図が大きく崩れます。「皇極天皇」の息子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と藤原鎌足(ふじわらのかまたり)らによる蘇我入鹿暗殺(乙巳の変[いっしのへん])です。これにより蘇我一族が倒れ大化の改新が起こります。

この一件で支えを失った「皇極天皇」は、天皇の地位を退くことを決めました。その後継には何人かの人物が挙がりましたが、弟である軽皇子が即位、「孝徳天皇」となっています。

「皇極天皇」と蘇我入鹿との関係とは

「皇極天皇」と共に国政の最高位を担ったのが蘇我入鹿

先代の舒明天皇の時代から絶大な権力を持っていた蘇我蝦夷ですが、「皇極天皇」の即位と共に息子である蘇我入鹿に国政の最高位である「大臣(おおおみ)」の地位をさずけ、広大な権力を握らせます。

父、蘇我蝦夷に代わり実権を握った蘇我入鹿は非道で傲慢だったとするエピソードがいくつかあり、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を後継者とするために、同じ後継者候補の一族を滅ぼした事でも有名です。

蘇我入鹿は「皇極天皇」の息子に暗殺される

蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足らに暗殺されたことは先にも触れましたが、その背景には「皇極天皇」の後継者をめぐる争いがあったとされています。

「皇極天皇」下で大きな権力を担った蘇我入鹿が推していたのは古人大兄皇子であったため、中大兄皇子は蘇我入鹿が権力を奮っている以上、天皇になる可能性はほとんどなかったようです。つまり、自らが上に行けるよう蘇我入鹿を暗殺、蘇我氏一族を排除したというわけです。

この一件後、皇極天皇は中大兄皇子に譲位することを伝えますが、実際に中大兄皇子が天皇となるのはもう少し先のことです。入鹿暗殺直後は皇位簒奪と見られる恐れがあるため、おじの軽皇子を推薦したとされています。

「皇極天皇」と蘇我入鹿は愛人関係にあった?

蘇我入鹿暗殺にはさまざまな見方があり、後継者争いだけでなく、「皇極天皇」と蘇我入鹿の関係もしばしば理由の一つとして取り上げられます。

というのも、「皇極天皇」はいわゆる未亡人で、蘇我入鹿と愛人関係にあったとされています。「皇極天皇」の息子である中大兄皇子は、そんな蘇我入鹿に憎悪を抱いたことも暗殺の理由と言われているのです。中大兄皇子が「皇極天皇」の目の前で蘇我入鹿を暗殺したのも、その憎悪ゆえとする声も多数聞かれます。

「皇極天皇」が重祚したのはなぜ?

弟・孝徳天皇の死後重祚、斉明天皇に

「皇極天皇」は孝徳天皇に譲位した後、655年に斉明天皇(さいめいてんのう)として再度天皇の位についています(重祚)。斉明天皇は655年〜661年まで第37代天皇として在位、661年7月24日に崩御しています。

重祚の理由は孝徳天皇の死因にある?

「皇極天皇」はなぜ重祚したのか、その理由は孝徳天皇の死因にあるとされています。

「皇極天皇」の後に即位した孝徳天皇は、大阪難波に遷都し、さらにその後、同じ難波の長柄豊崎宮に遷都しました。この度重なる遷都は、皇太子である中大兄皇子らとの対立を招き、とうとう孝徳天皇を残し中大兄皇子らは大和(奈良)へと戻ってしまいます。1人取り残された孝徳天皇は心身ともに病み、その翌年に亡くなります。

孝徳天皇の死の一端を担ったとも言える中大兄皇子は、後継者でありながら、皇位簒奪を目論んだとされることを懸念し辞退します。これにより皇位継承者が不在となったため、中大兄皇子の地位はそのままに、「皇極天皇」が重祚、「斉明天皇」となったとされています。

斉明天皇は蝦夷統制群の派遣などで知られる

重祚し斉明天皇となった「皇極天皇」は、蝦夷征討軍を派遣したり、百済救援軍を九州に送ったりしたことで知られています。斉明天皇自身も自ら大軍を率いて朝鮮半島を目指しますが、その途中、九州で亡くなっています。

まとめ

「皇極天皇」は飛鳥時代の天皇で、歴史上はじめて譲位をし、またはじめて重祚し「斉明天皇」として即位した天皇です。つまり、2度天皇の地位についた人物ということになります。この譲位と重祚でよく知られる「皇極天皇」ですが、雨乞いのエピソードでも有名で、霊験あらたかだったとも言われています。