「継体天皇」は6世紀はじめごろに即位した天皇ですが、他の天皇にくらべ”謎が多い”と言われることがあります。「継体天皇」の即位のいきさつと謎が多いとされる理由について詳しく解説します。また「継体天皇は何をした人?」や「継体天皇」の死後、聖徳太子との関係性についても紹介しましょう。
「継体天皇」とは?即位のいきさつ
「継体天皇」は6世紀はじめ、第26代天皇
「継体天皇(けいたいてんのう)」は6世紀はじめごろに即位した、第26代天皇です。生年が西暦450年、没年が531年とされていますが、古事記では享年43歳と記載されていてその生没年には不詳なところがあります。
跡継ぎがおらず越前(福井県)から迎えられた「継体天皇」
第25代の天皇である「武烈天皇」には先の後継者争いなどの影響から跡継ぎがおらず、武烈天皇の死後、大和政権の王統は継承の危機となります。そこに迎え入れられたのが応神天皇の5世孫とされる「継体天皇」です。
「継体天皇」は近江国高島郡三尾野を本拠とした地方豪族の出で、父が亡くなった後、母の故郷である越前国(福井県北部)で育てられました。その後は長じて越前地方を統治していたとされています。
当初、武烈天皇の後継としては他の者が打診をされていますが、その者が逃げ出したことから「継体天皇」に白羽の矢がたったと伝えられています。
「継体天皇」が大和に入るまで異例の20年
507年、楠葉宮(くずはのみや)で「継体天皇」は即位します。その後幾度か宮を移しながら政治力を拡大し、526年にようやく大和の磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)に入ります。即位後すぐに大和に入ったのではなく、大和に入るまで異例の20年という歳月を経たのも「継体天皇」の特筆すべき点です。
「継体天皇」の謎とは?
「継体天皇」は「謎の大王」とも呼ばれる
「継体天皇」は別名「謎の大王」とも呼ばれます。時代的に文献が少なく、生没年が曖昧なことからも謎めいた印象が受け取れるでしょう。さらに、即位後大和に入るまで20年という長い歳月がかかっていることも謎めいた印象を強めています。
「継体天皇」を新王朝の始祖とする説も
中でも、「継体天皇」の大きな謎とされる点が、応神天皇の5世孫と血筋と呼ぶのには関係性が薄いことが挙げられます。
この応神天皇からの系譜も不明瞭であることから、「なぜ継体天皇を?」と疑問に思う声は多く、専門家の間でも王統の継承性が疑われてきました。こうした理由から地方の一豪族が大和の混乱に乗じて皇位簒奪に乗り出したのではないか、とする見方や「継体天皇」をそれまでとは区別し全く新しい系譜、新王朝の始祖ととらえる説もあります。
「継体天皇」は何をした人?
即位直後は淀川水系を基軸に力を高める
「継体天皇」は即位から20年間は淀川水系を基軸に、政治力・経済力を高めたと言われています。鉄器の生産加工が良い例で、ビジネスとして拠点を拡大していったとされています。
継体天皇6年、百済から儒教伝来
継体天皇6年(513年)、百済の武寧王が五経博士(儒教の根本とされる五経の学者)を派遣、これにより日本に儒教が伝わったとされています。
この儒教伝来に先がけ、国土の半分を失った百済から朝廷へ、任那4県の割譲の依頼が舞い込みました。当時の大和政権は任那の支配権を持つとともに百済と強い結びつきがあり、高句麗に責められた百済が半ば助けを求めたというわけです。これに対し大伴金村は承諾するとともに五経博士の派遣を条件としたとされています(のちに金村はこの一件を理由に失脚しています)。
なお、儒教の伝来に関しては諸説あり、5世紀初めには伝来していたとする見方もあります。
継体天皇21年、筑紫国造磐井の乱が勃発
先述の任那4県割譲問題以降も、大和政権はのこされた任那の土地を守るべく、争いは続きます。そしてついに継体天皇21年(527年)が大規模な出兵をおこない、「筑紫国造磐井の乱(つくしのくにのみやつこいわいのらん)」が起こります。
「継体天皇」の出兵に対し新羅は、大和政権に不満を持っていた九州の地方豪族、筑紫国造磐井と共に大和政権に反抗しました。この戦いの鎮圧には2年もの歳月がかかり、最終的には物部麁鹿火(もののべのあらかび)が鎮圧したとされています。
「継体天皇」の死後
「継体天皇」の死後、子が天皇として即位
「継体天皇」の死後は、その子が「安閑天皇」「宣化天皇」「欽明天皇」と順に即位しています。この「継体天皇」からの系譜は現代まで続いています。
「継体天皇」のひ孫は聖徳太子
「継体天皇」の子孫で歴史的に有名な人物では「聖徳太子」も挙げられます。聖徳太子は、「継体天皇」の孫である用明天皇(ようめいてんのう、第31代)の子にあたります。
聖徳太子は推古天皇につかえ、遣隋使の派遣や天皇を中心とした中央集権国家体制を作った人物です。その功績は数多く、歴史に疎い人でも聞き覚えのある名前でしょう。
今城塚古墳が真の「継体天皇陵」?
宮内庁によって管理される「継体天皇陵」は大阪府茨木市の三嶋藍野陵(みしまのあいののみさぎ)ですが、同高槻市の「今城塚古墳(いましろづかこふん)」が真の継体天皇陵である、とする見方が広まっています。
「今城塚古墳」は6世紀前半に築造されたとされる前方後円墳で、墳丘の全長で190メートル、「継体天皇」が存命のうちから作られた寿陵と見られています。その出土品や古墳の大きさ、形状などからこの今城塚古墳こそ「継体天皇陵」であるとする専門家が多いようです。
まとめ
「継体天皇」は6世紀はじめに即位した、第26代天皇です。前代の「武烈天皇」に跡継ぎがいなかったことから、越前から応神天皇の5世孫として迎え入れられたのが「継体天皇」でした。
応神天皇の5代孫とされながらもその系譜が曖昧なこと、また時代的に文献が少ないことなどもあいまって「謎の大王」と呼ばれるほか、「継体天皇」以降をそれまでとは区別し“新王朝”とする見方もあります。一方、「継体天皇」以降はその子が即位していて、ひ孫には歴史的にも有名な聖徳太子がいます。