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「持統天皇」は何した人?遷都と律令や万葉集・和歌のエピソード

「持統天皇」は皇室史上3人目の女性天皇です。「藤原京」に遷都したことでも知られる「持統天皇」ですが、和歌の才能にも優れており百人一首にはその歌が残っています。「持統天皇」の即位までの経緯や系図をはじめ、「持統天皇」の治世における出来事や天皇の性格・エピソードについても紹介します。

「持統天皇」とは?即位のいきさつと家系図

「持統天皇」は飛鳥時代、第41代の女性天皇

「持統天皇」は飛鳥時代、690年に即位した第41代天皇で、日本では史上三人目の女性天皇です。

天智天皇を父に持ち、13歳で叔父にあたる大海人皇子と結婚しています。大海人皇子が壬申の乱に勝利、天武天皇として即位したことで皇后となりました。この皇后の時代から、天皇に政務について助言をしていたという記録が残っています。

天武天皇の崩御後、草壁皇子の病死を受け即位

685年ごろから天武天皇が病気がちになったことで、皇后とその子である草壁皇子が存在感を強めていきます。天武天皇が崩御する際にも皇后と草壁皇子に大権を委任したとされていいます。

天武天皇の崩御後は草壁皇子が即位するはずでしたが、皇位に着くことなく草壁皇子は亡くなっています。その次の後継者である軽皇子はこの時まだ7歳と幼く、皇后が自ら即位することを決め「持統天皇」となったのです。

家系図を見るとその孫に文武天皇・元正天皇が

「持統天皇」の家系には「文武天皇」がいます。「持統天皇」が即位した際にはまだ幼かった軽皇子ですが、それから数年のうちに「持統天皇」が譲位する形で、「文武天皇」として即位しています。このほか、第44代天皇「元正天皇」も「持統天皇」の孫にあたる人物です。

「持統天皇」は何をした人?出来事

「藤原京」の造営を継承、694年遷都

「持統天皇」の治世はその多くが先代の天武天皇の政策を引き継ぐ形で進められ、そのひとつが「藤原京」です。天武天皇の崩御によって一時中断された「藤原京」の造営ですが、「持統天皇」は690年にそれを再開、694年に遷都しています。

天武天皇から引き継いだ「飛鳥浄御原令」

天武天皇から引き継いだ政策では律令事業もありました。「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」と呼ばれる日本史上初の体系的な律令法です。この「飛鳥浄御原令」は草壁皇子が急死した直後(689年6月)に頒布されています。

なお、この「飛鳥浄御原令」の頒布は厳密には「持統天皇」が即位する前ですが、皇后の時代から携わったことなどから「持統天皇」の功績として挙げられることが多いようです。

存命中に譲位、太上天皇として大宝律令に関わる

「持統天皇」の治世では、壬申の乱での功績を評価された「高市皇子」が太政大臣に就き天皇を支えていました。この高市皇子は一説では皇太子あるいはその有力候補だったのでは?とされる人物です。この高市皇子がなくなった際に皇太子となったのが軽皇子(持統天皇の孫)です。

そして、「持統天皇」が軽皇子に譲位する形で「文武天皇」が誕生します。存命中に天皇が譲位したのは史上2人目です。さらに「持統天皇」自らは、史上初の「太上天皇」(上皇)となり、若くして即位した文武天皇と共に政務に就きました。こうして「持統天皇(上皇)」は文武天皇の最大の功績とされる大宝律令の制定にも関わっていたとされています。

なお高市皇子がなくなってから孫を即位させるまでの一連の流れは「持統天皇」の一種のクーデターとする見方もあるようです。

「持統天皇」はどんな人?性格やエピソード

冷静沈着で冷酷な一面があったといわれる

「持統天皇」は知的で冷静沈着なイメージで語られることが多いですが、合わせて冷酷な一面があったと言われることが多いのも特徴です。

たとえば大津皇子の謀反についても、実際は謀反に仕立て上げたのではないかという見方や壬申の乱の首謀者も大海人皇子ではなく「持統天皇」だったのではないかとする説もあります。

万葉歌人として万葉集に和歌を残す

「持統天皇」は万葉歌人としても知られています。「持統天皇」の歌で最も有名といえるのが百人一首のひとつ「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山(春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山)」です。夏の訪れを喜ぶ和歌です。

柿本人麻呂に歌を作らせたことでも知られる

「持統天皇」は自らが歌のセンスに長けていただけでなく、『万葉集』の歌人で”歌聖”とも称えられた柿本人麻呂に、天皇を称賛するような歌を作らせたことでも有名です。柿本人麻呂自身は下級官吏でしたが、宮廷詩人として天皇の力をたたえる歌を多数残しています。

また同じ『万葉集』を代表する歌人と言われる「額田王(ぬかたのおおきみ)」は、天武天皇の寵愛を受けた元妻です。晩年には「持統天皇」の吉野行幸に際して贈った歌があるとされています。

死因は病死、はじめて火葬された天皇

「持統天皇」は譲位した後も太上天皇としてその手腕をふるいますが、702年に病に倒れ崩御します。その後、一年間のもがりを経て火葬、天武天皇陵に合葬されています。天皇が火葬されたのは「持統天皇」が歴史上はじめてでした。

まとめ

「持統天皇」は第41代の天皇で、史上3人目の女性天皇です。その治世では夫である先代の天武天皇の事業を引き継いだものが多く、藤原京への遷都や律令の編纂などが挙げられます。

「持統天皇」は譲位後に史上初の太上天皇(上皇)として政治に関わったのも特筆すべき点です。「持統天皇」として即位する前から天皇に助言していたことを考えると、天皇としての在位期間よりもずっと長く政治に関わっていたという見方もできるでしょう。