「文武天皇」は何をした人?系図・出来事と大宝律令制定の裏側も

「文武天皇」は飛鳥時代の天皇で、「大宝律令」によって律令体制を確立したことでも有名です。その一方で「文武天皇」は幼い頃に父を亡くし、自身も早くして即位しています。「文武天皇」の家系や即位のいきさつをはじめ、「文武天皇」の事業・功績やエピソードを紹介します。

「文武天皇」とは?

「文武天皇」は飛鳥時代の第42代天皇

「文武天皇(もんむてんのう)」は飛鳥時代の天皇で、第42代の天皇として数えられます。「持統天皇」の次の天皇で、在位は697年〜707年とされています。

「文武天皇」は天武天皇と持統天皇の孫にあたる

「文武天皇」はその名を軽皇子といい、天武天皇と持統天皇の孫にあたります。

「文武天皇」の父、草壁皇子は天武天皇の崩御後皇位につくものと見られていましたが、即位前に亡くなっています。この時「文武天皇」はまだ7歳と幼かったため、即位はおろか皇太子にもならなかったようです。実際、この段階では後継が決まらず、天武天皇の妻が「持統天皇」として即位しています。

「軽皇子」という名は孝徳天皇と同じ

「文武天皇」の「軽皇子」という名前は、実は孝徳天皇と同じです。孝徳天皇は第36代天皇で、在位も596〜654年と「文武天皇」よりも時代は古いです。つまり名前は同じ「軽皇子」ですが全く別の人物なのです。

実は「軽」というのは大和の古い地名で、天皇家とのゆかりも深い場所とされています。そのため歴史的にみると、「文武天皇」や孝徳天皇以外にも「軽皇子」「軽皇女」と名付けられた子がいたようです。

「文武天皇陵」は中尾山古墳とする説が有力

「文武天皇陵」は宮内庁によると、「檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)」とされています。しかし、被葬者が明らかではないことなどから、「文武天皇陵」の北側にある中尾山古墳を「文武天皇陵」とする研究者も多いです。

「文武天皇」の即位のいきさつ

譲位を受け14歳で即位、「文武天皇」に

「文武天皇」は14歳(数え年15歳)で即位しました。14歳の若さで即位するのは当時でも異例のことですが、その背景には先代持統天皇からの譲位があります。

持統朝では軽皇子の叔父にあたる人物「高市皇子」が国政を統括していましたが、その人物が亡くなります。これを受け持統朝で国政を支える人物探しが始まりますが、持統天皇は周囲の反対を抑え、軽皇子を皇太子とし、さらには譲位の道を選びます。こうして軽皇子は「文武天皇」として即位したのです。

なお、この即位後まもなく、「文武天皇」は藤原不比等の長女、藤原宮子を妻としています。

「文武天皇」の即位で持統天皇は史上初の太上天皇に

「文武天皇」に譲位した後の持統天皇はというと、「太上天皇」として若き天皇の後見役となりました。

「文武天皇」が即位したことで太上天皇となった持統天皇は、天皇を支える形で政務を行います。持統天皇(上皇)のこれは後の院政の始まりとも言われていて、持統天皇(上皇)は亡くなるまで「文武天皇」を支えたようです。

「文武天皇」は何した人?出来事とエピソード

藤原不比等らと「大宝律令」による律令体制を確立

「文武天皇」は律令編纂という大事業を成し遂げたことで知られる天皇です。刑部親王、藤原不比等らとともに「大宝律令」を編纂し、701(大宝元年)〜702(大宝2年)年にかけて施行しています。これにより日本の律令体制が確立したとされています。

なおこの律令の制度の基盤は持統天皇の頃に作られたもので、「大宝律令」にも持統天皇は上皇として携わっていたようです。

遣唐使を33年ぶりに派遣、新国号「日本国」を伝える

「文武天皇」は702年に33年ぶりに遣唐使を派遣したこともでも有名です。粟田真人(あわたのまひと)らが唐の女帝・則天武后に謁見し、唐との国交が修復しました。またこの際、「日本国」という新国号を伝えとされています。

「文武天皇」の次の天皇とその系図

「文武天皇」の崩御後は母が即位(元明天皇)

「文武天皇」は律令制度の確立という大事業を成し遂げたのものの、25歳の若さで亡くなっています。遺された首皇子はまだ幼かったことから、「文武天皇」の母である阿陪皇女(天智天皇の娘)が皇位を預かるという形で即位、「元明天皇(げんめいてんのう)」となりました。

「文武天皇」の子はのちの「聖武天皇」

幼くして父を亡くした首皇子は、のちに「聖武天皇(しょうむてんのう)」として即位します。「聖武天皇」は第45代天皇で、在位は724年〜749年、奈良時代の天皇です。なお、「聖武天皇」の母は藤原不比等の娘、藤原宮子です。

まとめ

「文武天皇」は14歳で即位した第42代天皇で、「大宝律令」の時の天皇として知られる人物です。若くして即位した「文武天皇」は祖母であり先代の天皇でもある持統上皇が支えていて、これは後の院政に繋がるとされています。

自らの父を幼くして亡くした「文武天皇」ですが、自身も幼い子を残して25歳という若さで亡くなっています。そのため、「文武天皇」崩御後はその母が皇位を預かるという形で「元明天皇」として即位しました。